傾国の墓標
2009-03-27T23:50:44+09:00
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懐疑論思想チップセットを埋め込んでやる。
Excite Blog
「殺人、暴行、強姦は悪である」から「言葉によるいじめは悪である」を導出する。
http://erosion.exblog.jp/9927038/
2009-03-27T23:49:20+09:00
2009-03-27T23:50:44+09:00
2009-03-27T23:50:44+09:00
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懐疑論思想チップセット
(A) 物理的攻撃は悪である。……仮定
(b) 殺人、暴行、強姦は悪である。……(a)と(A)より
(c) 身体は物理的である。……公理2
(d) 精神的なものは身体に還元することができる。……公理3
(e) 言葉によるいじめは精神的なものである。……公理4
(1) 精神的なものは物理的なものに還元することができる。……(c)と(d)より
(2) 言葉によるいじめは物理的攻撃である。……(e)と(1)より
(3) 言葉によるいじめは悪である。……(A)と(2)より
※公理3(還元主義的唯物論)が弱い。
※しかし、日本人の場合にはほとんどがそうであると思うが、還元主義的唯物論を採用している者は上の結論を支持していることになる。
※なお、「言葉によるいじめ」は「誹謗」、「中傷」、「罵倒」、「悪口」、「嘲笑」などに置き換え可能であることは言うまでもない。]]>
5分前行動仮説に仕掛けられた罠
http://erosion.exblog.jp/9913445/
2009-03-25T22:53:00+09:00
2009-03-25T22:59:14+09:00
2009-03-25T22:54:24+09:00
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懐疑論思想チップセット
この仮説は、何ごとも5分前に行動することが重要であるという、男版スイーツ(笑)とでも言うべき人生訓で、自己啓発系のアホ、バカの類が好んでいる考えである。
実は、この思想には致命的な欠陥があるのだということに、先の格言と関連づけた5分後ぐらいに思い至った。(論理学者や分析哲学者ならば、この仮説を聞いた直後に誤謬に気づくであろう。)
たとえば始業開始5分前には仕事に着手できる状態にしておけという事例を想定してもらいたい。この事例に5分前行動仮説を適用すれば、始業開始5分前の5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをしておかねばならず、さらにその5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをするための何かをしておかねばならない……となり、無限後退/無限遡行/無限背進に陥ってしまうのである。したがって、5分前行動なるものは少なくとも「この世界」では不可能であるということが帰結する。なぜなら、この世界では1日は24時間なのだから!(「!」の代わりに、無限後退に耐えられるはずがない、と続けてもよい。)]]>
いわゆるフェミニストの誤謬
http://erosion.exblog.jp/9886676/
2009-03-22T06:16:42+09:00
2009-03-22T06:18:04+09:00
2009-03-22T06:18:04+09:00
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懐疑論思想チップセット
(1) 「男が女に暴力を向けてはならない」という規範は男尊女卑主義の下で正当化される考えである。
(2) 「男が女に暴力を向けてはならない」という規範は女の特権を主張する言明である。
(3) したがって、性差廃絶主義/男女平等主義下で「男が女に暴力を向けてはならない」という規範を唱えるという行為は、一方で男尊女卑主義的な女の特権を維持しつつ、他方で男女間で平等を強いることであるため、結果として女尊男卑主義の表明となっている。
(4) それゆえ、「性差廃絶主義者による『男が女に暴力を向けてはならない』」という規範的言明は、2重の差別を含むものとなっている。
(5) 以上より、性差廃絶主義者は彼らの批判対象である男尊女卑主義者よりも差別的であるということが帰結する。
(6) 性差廃絶主義者はまた、批判対象と同様に男尊女卑という自己中心的な行為を行っているうえに女尊男卑までも行っているにもかかわらず、批判対象を自己中心的であると批判するという重層的自己中心性を発露しているために、男尊女卑主義者よりも自己中心的であると言うことができる。]]>
条件を無視した比較
http://erosion.exblog.jp/9886675/
2009-03-22T06:15:49+09:00
2009-03-22T06:17:10+09:00
2009-03-22T06:17:10+09:00
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懐疑論思想チップセット
たとえば、次のような例を用いればそのことがよく分かると思う。ある試験を100人が受け、そのなかの1人がもっとも良い点をとり、その点が10点だったとする。しかし、実はその試験の満点は100点であったのだとしたらどうだろうか。しかも、受験者の国におけるその試験問題の平均点が60点であるとしたらどうだろうか。
つまり、与謝野馨が提示した見解は、条件概念を欠いた比較による優位性言明になっているのである。ここでは、比較対象となる他の国家の刑事訴訟手続きやすべての国家の刑事訴訟手続きがそもそも誤っていないかどうかという検討を行わねばなるまい。
ある者(ここでは小沢一郎)がゴミ虫、クソ虫の類であるからと言って、彼のすべての言明が誤謬であるとは限らないのである!]]>
言語にまつわる2つの立場
http://erosion.exblog.jp/9886673/
2009-03-22T06:14:00+09:00
2009-03-22T16:35:10+09:00
2009-03-22T06:16:13+09:00
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懐疑論思想チップセット
前者の典型例は、現在の若者が使っている日本語はおかしいという人びとである。しかし、これは、最初に使われていた言語からまったく変化を許容しないという立場であるため、自らが使用する日本語もおかしいと言っていることになる。他方、後者は、そうした人びとを批判し、歴史を見れば言語は移ろってきたのだと主張する。しかしそうすると、あるものをAを言う人が1分後にそれをBと言い、さらに1分が経過したときにはCと言ったとしてもよいという主張も含むようになるため、言語が成立しなくなる。
いずれも隘路であるように思える。これら2つの立場以外の第3の立場があるのだろうか。それとも、それら2つの立場の1つ以上に対する私の解釈が誤っているのだろうか。]]>
スマイリーの正体
http://erosion.exblog.jp/9737351/
2009-03-02T06:20:12+09:00
2009-03-02T06:21:22+09:00
2009-03-02T06:21:22+09:00
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戦略的ネタ
(a) 涙そうそう傭兵団団長スマイリー
(b) Oisixが扱うスマイルハンバーグの擬人化
(c) 『コードアヌス』に登場するアナリー岡田
(d) スマイリー菊門
(d)のスマイリー菊門さんのことなら興味しんしん丸である。
スマイリー菊門さんについては私も多くを知らない。闇のアナル大公とも呼ばれる彼女は、マンコではなくアナルから誕生したふたなりであるそうである。現在では、世界中のセレブという、嘲笑されているが大金を保有する人びとのアナルを極秘裏に分析・鑑定するハイパー・リアル・アナリストという職に就いて富を蓄積する傍ら、裏ではアナル・ハッキングを繰り返しているという。このアナル・ハッキングの手口のなかには、表の顔であるアナリストの仕事に繋がる種類のものも含まれるらしい。つまり、自作自演を行っているというのである。
私は、超ウィザード級アナル・ハッカーとしての彼女が用いるというアナル・ブレイカー(特殊な男根)の呼称を耳にしたときに、裏社会の弁護士、ジェネラル石井総統を想起して勃起してしまったが、もしかして何らかの関係があるのだろうか?
「女子高生コンクリ殺人事件」という言葉がふっと思い浮かんだが、たぶん気のせいだ。だいたい、何のことかわからないし。そういう「わけの分からない気取り」(副島隆彦)でものを言っていると警察に逮捕されます。ここは、警察の言うことは絶対確実に正しい、という設定のゲームに強制的に参加させられる世界らしいのでね。'`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、
以上は、第四世代人工無脳であるとされるパトリック・山崎・ナオコーラサワーさんの代筆のようなものであり、あたくしが考えたわけじゃあござぁーせん。上記文章を私が独自に考え出し、私の自由意志で公開したとする説は事実無根であり、冤罪です!(><)
デカルト「それはまだ疑える。」]]>
オタクとは何か。
http://erosion.exblog.jp/9737349/
2009-03-02T06:19:00+09:00
2009-03-25T20:19:13+09:00
2009-03-02T06:20:36+09:00
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懐疑論思想チップセット
この論法をより形式化すると次のようになる。
○Aが謂れのない迫害にあっているときに腹立たしいと思うすべての者はAである。
○Aでないならば、Aが謂れのない迫害にあっているときに腹立たしいと思わない。
したがって、この論法が正しいならば以下のことが導かれる。
◇黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う人が黒人。
これを白人に適用したのが下記である。
◆黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う白人は黒人である。
!?
「黒人」と「白人」という部分にはほかの語と入れ替えてもよい。非常に滑稽な命題が量産されるであろう。
ただし、冒頭の定義が依拠している形式は、オタクのように、曖昧で、明確に規定されていない対象に限定されるものであるという可能性はある。(白人や黒人は、呼称自体は便宜上のものであるが、おそらく背後から生物学によって支えらている。)
追 記
本文についてOtabaにも投稿したところ、以下の反論があったので掲載し、再反論する。
はじめまして、コメントさせていただきます。長文でもうしわけありません。
論法を形式化するときに、冒頭で「自分の事として」という一文を抜いたのは意図的にでしょうか。
Aが謂れのない迫害にあっているときに→「自分の事として」←腹立たしいと思うすべての者はAである。
自分の事としてというのは、「まるで自分の事のような気分になってしまう」という意味だと思いますが。
付け加えてから当てはめると、黒人が迫害されているときに、「ああ、これはなんだか自分が言われているような気がするぞ」と思う白人は居ないので、適用できない気がします。
黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、腹立たしいと思う白人は「他人の事ながら」腹立たしいわけで、自分の事ながら腹立たしい訳ではないので、当てはまりません。
この定義自体に賛成するわけではないですが、
普段「俺はオタクじゃない」と言っている人が、オタクが迫害されているのを見て、「なんか俺が叩かれている気がする、ムカつくわ」と思ってしまったら、あんた自分で自分がオタクって無意識に認めちゃってますよ。
って事が言いたいんだと思いますが、それなりに真実をついている気が。
ちなみに当てはめるときにも致命的なミスがあるように思います。
AやA文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う人がAとなっている文章に白人と黒人を当てはめていますが、これは。
↓
AやA文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思うB人がA
Aだけで論理を作っていたところに突然Bです。
このような形に書き換わっているように思います。この形式は最初の形から逸脱しており、非常に滑稽です。
オタクやオタク文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思うアルミ缶がオタク
この形です。もちろんアルミ缶はオタクではありません。物です。
ちなみに。なぜか新しく加えられたBの要素を取り除いたもの
■黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う人は黒人である。
以外に普通です。
この人が生物学的に自分のことを誤解していなければ、論理的な穴はありません。(多分)
この反論の論点は2つである。以下に再反論とともに示す。
(1) 私が示した論理形式は、私が取り上げた定義の論理形式と異なる。
⇒私が想定していた状況は、他者の言明は彼が採用している誤った前提や世界了解に基づいて行われているのだと判断したときに、自らがその言明の対象(ここではオタク)となるという認識(自らの主観を通した他者の主観)を持つに至り、その結果として腹立たしく思うというものである。また、「黒人が迫害されているときに、『ああ、これはなんだか自分が言われているような気がするぞ』と思う白人は居ない」というのは独断である。(論理の話をしているのであるから、反論者の実感やそれに基づく結論など知ったことではない。)
(2) 私が示した論理形式の適用の仕方は誤っている。
⇒具体的には、「黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う白人は黒人である。」の白人の部分が誤っているとのことであるが、「この人が生物学的に自分のことを誤解していなければ、論理的な穴はありません。(多分)」と自ら補足しているとおり、独断による反論となっている。また、「この人が生物学的に自分のことを誤解していなければ」という部分自体も、生物学が絶対確実に正しいと論証できない限り独断である。なお、私が「黒人」、「白人」という語を持ち出したのは私の主観(この主観には、私の主観を通した他者の主観を含む)による分類に基づくことを付記しておく。]]>
分析哲学の威力
http://erosion.exblog.jp/9737347/
2009-03-02T06:17:00+09:00
2009-03-26T23:42:31+09:00
2009-03-02T06:18:26+09:00
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懐疑論思想チップセット
反論とは、スレッド・タイトルのなかにあった「金だけ信じる」という文言に対してのものである。
その骨子は次のとおりである。
【前提】「金」の読み方は、「きん」ではなく「かね」であるものとする。
「金を信じている」という言明の背後には「貨幣制度を信じている」という前提がある。
そして、「貨幣制度を信じている」ならば、「その貨幣制度を同調的な仕方で成立させている(※)人類社会を信じている」ことになる。(※※)
それゆえ、この世界においては「金だけを信じている」という事態は成立しない。
※社会システム論を考慮するならば、この表現は十全とは言えない。
※※なぜなら、貨幣制度は人類社会があることを前提しているから。(むろん、人類社会以外の何かであっても貨幣制度を確立することができるかもしれない。その場合には、人類社会をその何かに置換すればよい。要するに、貨幣制度は他のすべてと独立して成立しているのではないということが重要なのである。)]]>
裁判員制度に対する各種各様の期待
http://erosion.exblog.jp/9737345/
2009-03-02T06:16:14+09:00
2009-03-02T06:17:25+09:00
2009-03-02T06:17:25+09:00
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懐疑論思想チップセット
363 :傍聴席@名無しさんでいっぱい:2008/11/09(日) 16:23:49 ID:C12d8RYS0
ヒヒヒ
今から楽しみだな。
おれみたいな最悪な人間一杯居ると思うから
滅茶苦茶になるだろうな。
法律に触れない程度にセイゼイ憂さ晴らしやってやろうっと
しかし、「おれみたいな最悪な人間一杯居る」というのは憶見であろう。
(1) 「おれみたいな最悪な人間一杯居る」という文からは「おれは最悪な人間である」という文を抽出することができる。
(2) 最悪とはもっとも悪い何かである。
(3) もっとも悪い何かは質的に1つしかない。
(4) 質的に1つしかないにもかかわらず量的に1つでないならば、それらは同一である。
(5) 同一であるとは関係性ではない。
(6) したがって、それらは量を除くすべてについて一致していなければならない。
(7) >>363と同一であるもの/ことは>>363をおいてほかにない。
(8) それゆえ、「おれみたいな最悪な人間一杯居る」という命題の真理値は偽である。
反 論
上の議論が正しいとすると、たとえばこの世界のレモンは少なくとも品種が1つでなければならない。しかし、実際はそうでない。それゆえ、上の議論は誤っている。
残された問題は、いかにして各種各様の人間が最悪であると決定されるのかというものである。]]>
「雑誌のカラー」問題
http://erosion.exblog.jp/9737344/
2009-03-02T06:14:51+09:00
2009-03-02T06:16:01+09:00
2009-03-02T06:16:01+09:00
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懐疑論思想チップセット
(a) 創刊時にあったとされるカラーが変化していない場合
この場合、その漫画雑誌は時勢などの影響をまったく受けず、したがって創刊時の特徴から変化しないのでなければならないが、そのような漫画雑誌がこれまであっただろうか?
(b) 創刊時からカラーが1回以上変化している場合
これが成立するには、その漫画雑誌の古い作品が一斉に終了し、その次の号から新しい作品が一斉に開始されねばならない。なぜならば、古い作品が1つでも残っていてなお1つのカラーで統一されている場合、新しい作品は古い作品と同一のカラーを有していることになり、したがってカラーが創刊時から変化したとは言えないためである。]]>
持続可能性 -人間中心主義と反人間中心主義-
http://erosion.exblog.jp/9737338/
2009-03-02T06:13:59+09:00
2009-03-02T06:13:39+09:00
2009-03-02T06:13:39+09:00
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闇鍋的
私は、「持続可能な開発」や「環境保護運動」が、より長期的には人間中心主義に立脚しており、より短期的には利己主義に立脚していることによって発生したものであると見ている。それらの追求は、決して純粋に地球や他の動植物のために行っているのではなく、従来型の破壊的な開発を続けた場合、いずれ自らに跳ね返ってくるということに思い至ったために、方向転換しただけのことである。
すなわち、旧型の人間中心主義が近視眼的、直接的であったのに対し、新型の人間中心主義は遠視眼的、間接的(一般人からすれば賢い、大人なやり方)なのである。人が生きていけないような環境になるまでにはまだ時間がある、したがってそうした事態に至る以前に死ぬと一般に思われるような人による持続可能性、ないし環境保護の提唱は、彼らの思想の背景に「人類は存在し続けなければならない」という独断があると考えれば説明づけることができる。他方、後者の利己主義とはどういうことかと言えば、持続可能性言説や環境保護言説が蔓延しており、その時流に乗らないと攻撃を受け、場合によっては生活していけなくなる、もしくは生活していけたとしても富裕層には加われないという理由から見かけ上の支持を行っているということである。
むろん、なかには反人間中心主義的な意図に基づきそうした行為をしている者もいると思われる。しかしながら、反人間中心主義も突き詰めれば人間中心主義に転じることとなる。それは、結局のところ人間の言語で考えているからにほかならない。(動物の感覚や感情を人間の言語で代弁することなど果たして可能であろうか。)]]>
無限という概念に潜む問題に無頓着であるという事例の典型
http://erosion.exblog.jp/9737342/
2009-03-02T06:13:54+09:00
2009-03-02T06:15:05+09:00
2009-03-02T06:15:05+09:00
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懐疑論思想チップセット
「一度あることは無限度ある。」
しかしながら、死後の世界というものがないならば、すなわち人は一度死ぬことによってそこでその人のすべてが終わりになるならば、その人が経験するあるできごとが無限度繰り返されるということはない。したがって、「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」という命題の真理値は偽である。
ただし、この議論には2つの前提が独断されている。1つは、肯定的背理法(「PならばQ」と「Qでない」から「Pでない」を導き出す、もしくは「QでないならばPでない」=「PならばQ」の対偶と「Qでない」から「Pでない」を導き出す推論規則)が正しいという前提であり、もう1つは、三浦俊彦が示唆した確率論的輪廻転生(『多宇宙と輪廻転生-人間原理のパラドクス-』を参照)が生じないという前提である。(肯定的背理法を独断的に前提するのが問題なのは、その規則に二値論理が含まれるためである。多値論理は行き過ぎであるにしても、真と偽に真偽決定不能を加えた三値論理が正しいという可能性の検討を要するであろう。)
また、そのできごとが三度で終わる論理的根拠がある可能性についても無視されている。(もっとも、これまでその命題を主張してきた者には論証し得ないであろうが。)
ところで、あるできごとが同一であるとは何が同一であるのか。たとえば、段差に躓いて転びそうになるというできごとが二度起こるというとき、直感的にはその文を分かったつもりになってしまうが、一度目と二度目の「段差に躓いて転びそうになるというできごと」は本当に同一のできごとなのか。少なくとも、すべてにおいて同一ではあるまい。(なぜ転びそうになったか、どのように転びそうになったか、転びそうになる度合い等々)]]>
ファスト・フード店にて
http://erosion.exblog.jp/9737334/
2009-03-02T06:11:00+09:00
2009-03-27T14:27:16+09:00
2009-03-02T06:12:30+09:00
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懐疑論思想チップセット
それより、マックでチーズバーガー頼んだらチーズが入ってなかったんだけど、
その方が問題じゃぁねぇ??
544:名無しさん@八周年:2007/12/11(火) 00:50:23 ID:sxpJDUMCO
>>29
私も同じことがあって店員にクレーム言ったら、
「それならたい焼きに鯛が入っていますか?!」
って逆ギレされたことがある。
後で店長が出てきて平謝りされたけど。
引用した店員(その店員が実在するかどうかはここでは重要でない)は4つの点で独断に陥っている。
第1に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」と「鯛」が同一であるという信念が独断となっている。
第2に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示していると仮定しても、「「たい焼き」に鯛が入っていないならば、「チーズバーガー」にチーズが入っていない」という法則があるという信念は独断である。
第3に、上と同じく「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示していると仮定しても、「「たい焼き」に鯛が入っていないことのみから、「チーズバーガー」にチーズが入っていなくともよいということが帰結する」という規範は独断である。
第4に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示している場合において、「鯛焼き」が文字通りのものであるならば、鯛が「入って」いるとか鯛が「入って」いないとかいう言明は成立しない。(「鯛の塩釜焼き」で、「鯛が入っていなかった」というのは成立し得るし、実際に聞いたこともあるが。また、「鯛が切り身になっていた」という事例もあったようである。)
しかし、こうした批判に対しては、「そのチーズバーガーにチーズが入っていないという認識は独断である」と切り返される可能性がある。その場合には、「そのチーズバーガーにチーズが入っているという認識は独断である」と応答すればよい。(ただし、認識論について絶対確実な回答が与えられるまでこの議論に原理的な決着はつかなくなる。)]]>
オナニーと健康被害
http://erosion.exblog.jp/9737330/
2009-03-02T06:10:09+09:00
2009-03-02T06:11:19+09:00
2009-03-02T06:11:19+09:00
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懐疑論思想チップセット
ここでは、その言明に対する反駁を行う。
(1) その弊害がただオナニー(onanism)だけによるものであるという先入見がないか。
(a) その弊害は、オナニー以外に由来するものかもしれない。(オナニーをしている者が害を被っているというのが事実であるとして、そのことのみからオナニーは弊害を生じるものであるということは帰結しない。言い換えれば、オナニーをしている者の集合とオナニーによるとされる害を被っている者の集合という2つの集合を想定することができる可能性がある。)
(b) その弊害は、オナニーと他の何かの組み合わせにより発現するものかもしれない。
(c) オナニーは害を生じるという思い込みが伝播し、それが根づいたため、オナニーをする者は、その思い込みが原因の害を無意識のうちに発現してしまっている可能性がある。(想像妊娠的結末)
(2) (1)を論証するには、現状では当然のことながら演繹による必要があるが、仮に帰納的方法を採用したい場合は、オナニーをしているすべての者を調べる必要がある。しかし、未来にオナニーをする者が現れたならば、彼も含まれなければ絶対確実に正しいかどうかが判明しないため、原理的に人類が滅亡するまで検証が続けられなければならなくなる。人類が滅びた後にいったい何ものがその検証の結果を受け取ることができると言うのであろうか。
(3) 「オナニーにはその快楽を補って余りある弊害がある」(「その快楽を補って余りある」の部分は「重大な」その他の表現でもよい)と言うが、他者が感じる快楽と弊害についての自らの感覚による言及(「重大な弊害」という場合も同様に考えられる)はいかにして絶対確実に正しいと言えるのか。
(a) 感覚については時空を超えて人類の間で統一されるのが正しいという主張、さらにそれに追加してそうでなければならないという主張、もしくは現在の科学理論では人類の間で正しい1つの感覚があるとなっている(実際にそうなっているかどうか私は知らない)のであるから、現時点ではその理論が正当化されるという主張のいずれかを行っているのであろうが、私はそれ(ら)が絶対確実であることの論証を要求しているのである。
(4) そもそも、その弊害なるものが現象したという認識が絶対確実に正しいというのはいかにして論証されるのか。
(5) 当該主張の背後には「弊害があってはならない」という価値が潜んでいるが、その価値はいかにして論証されるのか。
(a) 反オナニー論者の言う弊害のなかには「容貌が醜くなったり、禿げたりする」ということを挙げる者もいるが、その場合、そうした弊害が行為者としての受け手によりつくられている可能性を考慮せよ。(受け手が、容貌が醜い者、禿げている者を拒絶しなければ、反オナニー論者が「オナニーを続けるならば攻撃するから覚悟しておけよ」と脅しているかに私には思える弊害は成立しないということである。またここには、(4)と同様に、容貌が醜い、禿げといった認識が絶対確実に正しいかといった問題もある。)
なお、わざわざ言うまでもなく(しかし誤読する人がいる可能性を考慮して言うが)、上記の問いの背後に「オナニーに弊害はない」という主張はない。(「寄らば切る」という言明のみから「寄らなければ切らない」が帰結しないことと同様である。)]]>
「世界に一つだけの花」についての反論者への問い
http://erosion.exblog.jp/9737326/
2009-03-02T06:09:32+09:00
2009-03-02T06:10:42+09:00
2009-03-02T06:10:42+09:00
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懐疑論思想チップセット
しかし、これに対しては直ちに2つの疑問が浮かび上がってくる。
(1) 「「No.1にならなくても、Only oneだからそれでいい」というのは甘えである」という言明が、事実として絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。(「甘え」という語の分析の要請)
(2) 甘えてはならないという規範が絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。
ここで、(2)に対して「経済云々、人類衰退云々」と反論する場合、
(3) 人類が存在し続けなければならないという信念が絶対確実に正しいことはいかにして論証されるのか。
という問いが生じることになる。
さて、冒頭に示した彼らの言明には、その断定的主張からも垣間見えてき、また彼ら自身が直接的に発話することもあるが、「No.1にならなければならない」という主張も含まれている。
その主張の前には、次の問いが立ちはだかっている。
(4) No.1であることはいかにして決定されるのか。
この文には2種類の問いが潜んでいる。1つは、対象がNo.1である(ここではある1人の人が人類の頂点に位置することを指している)という認識が絶対確実に正しいものとなるにはどのような条件が必要かというものであり、もう1つは、細分化した各分野(たとえば野球と数学)におけるNo.1が判明したとして、それらの間で統合No.1を決定するのはいかにして可能かというものである。(前者の問いの前に解決しておかなければならない問題として、No.1という状態は、ある1人の人が人類の頂点に位置することを指しているのか、それとも複数人が頂点に位置するという状況、言い換えれば複数の人が同時に頂点に位置することをも許容し得るのかというものがある。また、後者に付随する問題には、分野の細分化の方法としてどのようなものが適切と言えるかというものがある。)
ここにはまた、ある独断も前提されている。それは、No.1という語は、一般的には良い、あるいは優れていると分類される側の1位ということである(皮肉として、悪い側の1位を表現するときに使用することもあるが、反論者にとってはその使用法を採用しているのだなどとは言えまい。)が、その語の使用者による、良い、悪いといった認識が絶対確実であるという独断である。(分析倫理学と規範倫理学の問題)さらに、そこから、良くなければならない、劣っていてはならないといった規範が絶対確実に正しいことがいかにして論証されるかという問いも生じることになる。
これに対して、「われわれの言うNo.1とは分野ごとのNo.1である」との応答があることを仮定しよう。
しかしながら、ここでも似たような、しかし同一ではない問題が生じることとなる。その問題とは以下のとおりである。
(4)´ その分野の絶対確実に正しい分類の仕方はどのようなものか?
次に、彼らが行っている厳密でない仕方に従うことにしよう。
ところが、そこまで譲歩したとしても、まだ問題はある。(ただし、俗流の方法に対応してこちらも俗流の問題を提示することとする。)
(a) 「(俗流の方法で決定された)No.1にならなければならない」という言明は、「人類はただの1人の例外もなく全知全能にならなければならない」と言い換えることができる。
なぜそのように言えるのか。それは、たとえば数学の分野においてゲーデルがNo.1であるとして、彼を超克するには彼が導き出した定理を超えなければならない。(注:ある定理を超える定理というものをいったいどのようにして判断するのか分からないかもしれないが、それは私にも分からない。私はただ、俗流の反論に対して、俗流の、わけの分からない方法で応答しているだけである。)ところで、「No.1にならなければならない」というのは自らを含めて全人類に言っているのであった。全人類が新しい定理を次々に発見していくのであるから、この競争はそれ以上は論理的に不可能な地点である全知全能の状態になるまで続けられることになるのである。
ここで、複数人がNo.1になることはできない場合に次の問題が生じる。
(b) No.1とは、ただ1人が1位になることであるが、全人類が全知全能にならなければならないと言い、実際にそのとおりになれば、誰もNo.1になることができていないということになる。しかも、もう(全知全能の)先はないのである!
こうして、「No.1にならなければならない」論者は、厳密な仕方においては独断を行うがゆえに大変な苦戦を強いられ、厳密でない仕方においては論駁される議論を展開している可能性が大きいために敗北の色が濃厚なのである。
# 「No.1にならなければならない」論者が完敗しないためには、少なくとも「No.1という状態を複数人が同時に占有することができる」という命題の正しさを論証する必要がある。逆に言えば、「複数人が同時にNo.1になることは不可能である」、あるいは「ただ1人しかNo.1になることはできない」ということが論証できれば、「No.1にならなければならない」論者を完敗させることができるのである。]]>
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