懐疑論思想チップセットを埋め込んでやる。


by l-game
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
  「「持続可能な開発」というのは偽善である」と評している者を見かけたが、この偽善を分析すれば以下のようになる。(ここでの議論は環境保護運動についても適用される。)
  私は、「持続可能な開発」や「環境保護運動」が、より長期的には人間中心主義に立脚しており、より短期的には利己主義に立脚していることによって発生したものであると見ている。それらの追求は、決して純粋に地球や他の動植物のために行っているのではなく、従来型の破壊的な開発を続けた場合、いずれ自らに跳ね返ってくるということに思い至ったために、方向転換しただけのことである。
  すなわち、旧型の人間中心主義が近視眼的、直接的であったのに対し、新型の人間中心主義は遠視眼的、間接的(一般人からすれば賢い、大人なやり方)なのである。人が生きていけないような環境になるまでにはまだ時間がある、したがってそうした事態に至る以前に死ぬと一般に思われるような人による持続可能性、ないし環境保護の提唱は、彼らの思想の背景に「人類は存在し続けなければならない」という独断があると考えれば説明づけることができる。他方、後者の利己主義とはどういうことかと言えば、持続可能性言説や環境保護言説が蔓延しており、その時流に乗らないと攻撃を受け、場合によっては生活していけなくなる、もしくは生活していけたとしても富裕層には加われないという理由から見かけ上の支持を行っているということである。
  むろん、なかには反人間中心主義的な意図に基づきそうした行為をしている者もいると思われる。しかしながら、反人間中心主義も突き詰めれば人間中心主義に転じることとなる。それは、結局のところ人間の言語で考えているからにほかならない。(動物の感覚や感情を人間の言語で代弁することなど果たして可能であろうか。)
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:13 | 闇鍋的
  「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」ならば、「三度あることは、四度ある。」はずである。すると、次のことが帰結する。
  「一度あることは無限度ある。」
  しかしながら、死後の世界というものがないならば、すなわち人は一度死ぬことによってそこでその人のすべてが終わりになるならば、その人が経験するあるできごとが無限度繰り返されるということはない。したがって、「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」という命題の真理値は偽である。
  ただし、この議論には2つの前提が独断されている。1つは、肯定的背理法(「PならばQ」と「Qでない」から「Pでない」を導き出す、もしくは「QでないならばPでない」=「PならばQ」の対偶と「Qでない」から「Pでない」を導き出す推論規則)が正しいという前提であり、もう1つは、三浦俊彦が示唆した確率論的輪廻転生(『多宇宙と輪廻転生-人間原理のパラドクス-』を参照)が生じないという前提である。(肯定的背理法を独断的に前提するのが問題なのは、その規則に二値論理が含まれるためである。多値論理は行き過ぎであるにしても、真と偽に真偽決定不能を加えた三値論理が正しいという可能性の検討を要するであろう。)
  また、そのできごとが三度で終わる論理的根拠がある可能性についても無視されている。(もっとも、これまでその命題を主張してきた者には論証し得ないであろうが。)

  ところで、あるできごとが同一であるとは何が同一であるのか。たとえば、段差に躓いて転びそうになるというできごとが二度起こるというとき、直感的にはその文を分かったつもりになってしまうが、一度目と二度目の「段差に躓いて転びそうになるというできごと」は本当に同一のできごとなのか。少なくとも、すべてにおいて同一ではあるまい。(なぜ転びそうになったか、どのように転びそうになったか、転びそうになる度合い等々)
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:13 | 懐疑論思想チップセット

ファスト・フード店にて

29:名無しさん@八周年:2007/12/10(月) 23:29:13 ID:rxGIlVpc0
それより、マックでチーズバーガー頼んだらチーズが入ってなかったんだけど、
その方が問題じゃぁねぇ??

544:名無しさん@八周年:2007/12/11(火) 00:50:23 ID:sxpJDUMCO
>>29
私も同じことがあって店員にクレーム言ったら、
「それならたい焼きに鯛が入っていますか?!」
って逆ギレされたことがある。
後で店長が出てきて平謝りされたけど。


  引用した店員(その店員が実在するかどうかはここでは重要でない)は4つの点で独断に陥っている。
  第1に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」と「鯛」が同一であるという信念が独断となっている。
  第2に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示していると仮定しても、「「たい焼き」に鯛が入っていないならば、「チーズバーガー」にチーズが入っていない」という法則があるという信念は独断である。
  第3に、上と同じく「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示していると仮定しても、「「たい焼き」に鯛が入っていないことのみから、「チーズバーガー」にチーズが入っていなくともよいということが帰結する」という規範は独断である。
  第4に、「たい焼き」という語に含まれる「たい」が「鯛」を指示している場合において、「鯛焼き」が文字通りのものであるならば、鯛が「入って」いるとか鯛が「入って」いないとかいう言明は成立しない。(「鯛の塩釜焼き」で、「鯛が入っていなかった」というのは成立し得るし、実際に聞いたこともあるが。また、「鯛が切り身になっていた」という事例もあったようである。)

  しかし、こうした批判に対しては、「そのチーズバーガーにチーズが入っていないという認識は独断である」と切り返される可能性がある。その場合には、「そのチーズバーガーにチーズが入っているという認識は独断である」と応答すればよい。(ただし、認識論について絶対確実な回答が与えられるまでこの議論に原理的な決着はつかなくなる。)
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:11 | 懐疑論思想チップセット

オナニーと健康被害

  「オナニーには害がある」という言明があるが、その内容を読んだ限りでは、「オナニーにはその快楽を補って余りある弊害がある」と言ったほうが適切であると思う。
  ここでは、その言明に対する反駁を行う。

(1) その弊害がただオナニー(onanism)だけによるものであるという先入見がないか。
   (a) その弊害は、オナニー以外に由来するものかもしれない。(オナニーをしている者が害を被っているというのが事実であるとして、そのことのみからオナニーは弊害を生じるものであるということは帰結しない。言い換えれば、オナニーをしている者の集合とオナニーによるとされる害を被っている者の集合という2つの集合を想定することができる可能性がある。)
   (b) その弊害は、オナニーと他の何かの組み合わせにより発現するものかもしれない。
   (c) オナニーは害を生じるという思い込みが伝播し、それが根づいたため、オナニーをする者は、その思い込みが原因の害を無意識のうちに発現してしまっている可能性がある。(想像妊娠的結末)

(2) (1)を論証するには、現状では当然のことながら演繹による必要があるが、仮に帰納的方法を採用したい場合は、オナニーをしているすべての者を調べる必要がある。しかし、未来にオナニーをする者が現れたならば、彼も含まれなければ絶対確実に正しいかどうかが判明しないため、原理的に人類が滅亡するまで検証が続けられなければならなくなる。人類が滅びた後にいったい何ものがその検証の結果を受け取ることができると言うのであろうか。

(3) 「オナニーにはその快楽を補って余りある弊害がある」(「その快楽を補って余りある」の部分は「重大な」その他の表現でもよい)と言うが、他者が感じる快楽と弊害についての自らの感覚による言及(「重大な弊害」という場合も同様に考えられる)はいかにして絶対確実に正しいと言えるのか。
   (a) 感覚については時空を超えて人類の間で統一されるのが正しいという主張、さらにそれに追加してそうでなければならないという主張、もしくは現在の科学理論では人類の間で正しい1つの感覚があるとなっている(実際にそうなっているかどうか私は知らない)のであるから、現時点ではその理論が正当化されるという主張のいずれかを行っているのであろうが、私はそれ(ら)が絶対確実であることの論証を要求しているのである。

(4) そもそも、その弊害なるものが現象したという認識が絶対確実に正しいというのはいかにして論証されるのか。

(5) 当該主張の背後には「弊害があってはならない」という価値が潜んでいるが、その価値はいかにして論証されるのか。
   (a) 反オナニー論者の言う弊害のなかには「容貌が醜くなったり、禿げたりする」ということを挙げる者もいるが、その場合、そうした弊害が行為者としての受け手によりつくられている可能性を考慮せよ。(受け手が、容貌が醜い者、禿げている者を拒絶しなければ、反オナニー論者が「オナニーを続けるならば攻撃するから覚悟しておけよ」と脅しているかに私には思える弊害は成立しないということである。またここには、(4)と同様に、容貌が醜い、禿げといった認識が絶対確実に正しいかといった問題もある。)

  なお、わざわざ言うまでもなく(しかし誤読する人がいる可能性を考慮して言うが)、上記の問いの背後に「オナニーに弊害はない」という主張はない。(「寄らば切る」という言明のみから「寄らなければ切らない」が帰結しないことと同様である。)
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:10 | 懐疑論思想チップセット
  「世界に一つだけの花」という題名の歌があるが、この歌詞にいちゃもんをつける人がいるようである。彼らの主張の趣旨は「「No.1にならなくても、Only oneだからそれでいい」というのは甘えである」というものである。
  しかし、これに対しては直ちに2つの疑問が浮かび上がってくる。

  (1) 「「No.1にならなくても、Only oneだからそれでいい」というのは甘えである」という言明が、事実として絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。(「甘え」という語の分析の要請)
  (2) 甘えてはならないという規範が絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。

  ここで、(2)に対して「経済云々、人類衰退云々」と反論する場合、

  (3) 人類が存在し続けなければならないという信念が絶対確実に正しいことはいかにして論証されるのか。

  という問いが生じることになる。

  さて、冒頭に示した彼らの言明には、その断定的主張からも垣間見えてき、また彼ら自身が直接的に発話することもあるが、「No.1にならなければならない」という主張も含まれている。
  その主張の前には、次の問いが立ちはだかっている。

  (4) No.1であることはいかにして決定されるのか。

  この文には2種類の問いが潜んでいる。1つは、対象がNo.1である(ここではある1人の人が人類の頂点に位置することを指している)という認識が絶対確実に正しいものとなるにはどのような条件が必要かというものであり、もう1つは、細分化した各分野(たとえば野球と数学)におけるNo.1が判明したとして、それらの間で統合No.1を決定するのはいかにして可能かというものである。(前者の問いの前に解決しておかなければならない問題として、No.1という状態は、ある1人の人が人類の頂点に位置することを指しているのか、それとも複数人が頂点に位置するという状況、言い換えれば複数の人が同時に頂点に位置することをも許容し得るのかというものがある。また、後者に付随する問題には、分野の細分化の方法としてどのようなものが適切と言えるかというものがある。)
  ここにはまた、ある独断も前提されている。それは、No.1という語は、一般的には良い、あるいは優れていると分類される側の1位ということである(皮肉として、悪い側の1位を表現するときに使用することもあるが、反論者にとってはその使用法を採用しているのだなどとは言えまい。)が、その語の使用者による、良い、悪いといった認識が絶対確実であるという独断である。(分析倫理学と規範倫理学の問題)さらに、そこから、良くなければならない、劣っていてはならないといった規範が絶対確実に正しいことがいかにして論証されるかという問いも生じることになる。

  これに対して、「われわれの言うNo.1とは分野ごとのNo.1である」との応答があることを仮定しよう。
  しかしながら、ここでも似たような、しかし同一ではない問題が生じることとなる。その問題とは以下のとおりである。

  (4)´ その分野の絶対確実に正しい分類の仕方はどのようなものか?

  次に、彼らが行っている厳密でない仕方に従うことにしよう。
  ところが、そこまで譲歩したとしても、まだ問題はある。(ただし、俗流の方法に対応してこちらも俗流の問題を提示することとする。)

  (a) 「(俗流の方法で決定された)No.1にならなければならない」という言明は、「人類はただの1人の例外もなく全知全能にならなければならない」と言い換えることができる。

  なぜそのように言えるのか。それは、たとえば数学の分野においてゲーデルがNo.1であるとして、彼を超克するには彼が導き出した定理を超えなければならない。(注:ある定理を超える定理というものをいったいどのようにして判断するのか分からないかもしれないが、それは私にも分からない。私はただ、俗流の反論に対して、俗流の、わけの分からない方法で応答しているだけである。)ところで、「No.1にならなければならない」というのは自らを含めて全人類に言っているのであった。全人類が新しい定理を次々に発見していくのであるから、この競争はそれ以上は論理的に不可能な地点である全知全能の状態になるまで続けられることになるのである。
  ここで、複数人がNo.1になることはできない場合に次の問題が生じる。

  (b) No.1とは、ただ1人が1位になることであるが、全人類が全知全能にならなければならないと言い、実際にそのとおりになれば、誰もNo.1になることができていないということになる。しかも、もう(全知全能の)先はないのである!

  こうして、「No.1にならなければならない」論者は、厳密な仕方においては独断を行うがゆえに大変な苦戦を強いられ、厳密でない仕方においては論駁される議論を展開している可能性が大きいために敗北の色が濃厚なのである。


# 「No.1にならなければならない」論者が完敗しないためには、少なくとも「No.1という状態を複数人が同時に占有することができる」という命題の正しさを論証する必要がある。逆に言えば、「複数人が同時にNo.1になることは不可能である」、あるいは「ただ1人しかNo.1になることはできない」ということが論証できれば、「No.1にならなければならない」論者を完敗させることができるのである。
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:09 | 懐疑論思想チップセット
◆日本国内の農家は諸外国の農家と比較して恵まれているので、日本国内の農家は現状の苦痛を甘んじて受け入れねばならない。(もしくは現状を苦痛と考えるのは誤りである。)
という言明における問題は少なくとも3つある。

(1) 「日本国内の農家は諸外国の農家と比較して恵まれている」というのが正しいとして、当該言明から帰結する、特定の職業にある者は奴隷的な立場であることが正しいという規範はいかにして正しいと言えるか?
  →核心はこうだ。件の言明は、奴隷化競争を誘発し、進展させることによって、奴隷的な者どもを死に至らしめ、以って発言者として想定される「はずの」いわゆるエリートは食べ物(に限らず衣服や住居、工業製品まですべて)を自らで用意せねばならないということになるが、そうなればそれまでの彼らの生活(天下り、株取引、役員業務など)は成立しなくなる。(語用論的背理法にも反する?)
   しかし実際には、この問題においてそのような原理的な/根源的な考え方を用いるのは誤っているのかもしれない。(私が陥った懐疑主義の隘路という経験を参照すれば、原理的/根源的な追究をただひたすらに行うだけで問いに対する答えが判明するのではない、あるいはそのような行為では問いの立て方を誤る可能性があるという示唆が得られるのである。)

(2) 「より下を見るのが正しい」(「より下」というのは件の言明を行った者が持つ背景的判断であるという私の判断である)という規範を独断的前提にしているが、そこからは最低に位置するもの以外に陥らない限り、すべて耐え忍ぶのが正しいという規範が帰結される。
  →また、そうした独断は、「最低」というのがいかにして決定されるかという問題をも含んでいる。(頭の弱い者ならば、他者における最低の状況をかってに設定する、より厳密には多数派の感覚や感情によって最低とは何かを統一しようとし、それを強要するであろう。)

(3) 「日本国内の農家は諸外国の農家と比較して恵まれている」という認識はいかにして正しくなるか?(認識論の問題であって、日常レベルの問題ではない。)
  →日常レベルの問題として捉え直した場合には、国家間の経済格差を無視した議論は正しいかという問いが浮かび上がってくる。これに対して、経済格差を無視しているのではなく、経済については国家という枠を取り払って(グローバルに)考えねばならないのだという反論もあるかもしれないが、この主張についても根拠づけが必要となってくる。
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:08 | 懐疑論思想チップセット

予言の独断的前提

  予言というのは決定論を前提しているが、決定論は正しいか、正しいとするならばそれはどのようなものか〔どのような決定論が正しいか〕ということに対して絶対確実に正しい回答を与えない限り、そうした問題の上に成立している問題を議論をしても空虚である。
  なお、現時点では一階述語論理より先の論理は絶対確実に正しいかどうか分からないとされている(と思う)ので、数学でさえ絶対確実に正しいとは言えない。(これは、数学が今後も絶対確実に正しいと言えるようにはならないということではない。あくまでも暫定的な言及である。)
  補足するならば、数学で用いられる公理のすべてが絶対確実に正しいかどうかが最大の問題であるが、絶対確実とされている演繹(という過程もしくは関係性)にも問題がある可能性はある。それは、演繹という日常言語とまったく独立にその指示対象を取り出せるかという問題である。(ということは、命題論理や一階述語論理も隘路であるかもしれない。)つまり、実在論と反実在論(ただし観念論だけに限定されない)のいずれが正しいか、もしくは真偽未決かということである。
  この議論ではある可能性が見落とされていると思われた者もいるかもしれない。その可能性とは、一階の絶対確実性などというものはなく、ただ二階の絶対確実性があるのみであるとする立場の可能性である。これは、言い換えれば「いかなる科学理論の正しさもある特定の時点で固定化されることはなく、それらは改訂され得るのであるが、そうした過程こそが絶対確実に正しい」ということである。しかし、私は上記で、その立場が絶対確実に正しいかということも問うているのである。

――予言なんて簡単だよ。太陽系第三惑星上の生命はグレゴリオ暦2999年12月31日に消滅するか、しないか、そのいずれであるかが未決であるかのいずれかである。ほらね?
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:07 | 懐疑論思想チップセット

平等の実現可能性

  「機会の平等は善い平等であるが、結果の平等は悪い平等である。」という趣旨の言明があるが、私の感覚では機会の平等が実現し得るとは到底思えない。そのように思う理由は以下に示すとおりである。

  ◆平等の条件
  (a) 実在論が正しい場合→実際に容貌や性格や能力などのすべての性質が人類間で同一であること
  (b) 反実在論が正しい場合→容貌や性格や能力などのすべての性質が同一であると各人が各人について(認識せねばならないという意識ならびに無意識を抜きにして)認識すること
  (c) 第3の可能性→実在論的見解か反実在論的見解かにかかわらず、各人が各人に対して(等しく接しなければならないという意識ならびに無意識を抜きにして)等しく接すること

  なお、上で実在論が正しい場合には、同一とは関係ではないという点を考慮するならば、人類が同一であるためには人類が1人でなければならないということになるが、人類は1人で構成されているのではないため、人間社会で平等は実現しないということが帰結するのである。
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:07 | 懐疑論思想チップセット

いわゆる左翼の誤謬

  インターネット上でネット右翼なるものを攻撃している者が左翼であるとするならば、左翼が誤っているのは他国の(ネット)右翼の言動を無視している点である。右翼的言動なるものが悪であるならば、それが自国のものであるか他国のものであるかにかかわらず悪であると考えねばなるまい。(わが国における右翼/左翼の分類法は誤っているとの指摘もあるため、「なるもの」という表現を使用した。)
  なお、この反対の議論、すなわち「ネット右翼が誤っているのは他国の左翼の言動を無視している点である」という議論は成立しない。なぜならば、右翼という語には、独身者が結婚していないことを含意するのと同様に、自らが属する国家のみを対象とすることが含意されているためである。
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:06 | 懐疑論思想チップセット
  加害者擁護派(いわゆる頭弱学派:とうじゃくがくは)による被害者非難のうち、彼らが柱としているのが次の2つである。

  ◆被害者が逃げなかったのは彼女が性的脈絡における期待をしていたためである。

  しかし、これまで彼らがおこがましくも論証として提示した説明は次の文に集約される。(下記以外のものは、「燻製ニシン」や「わら人形論法」等々の、核心と関係のない初歩的な誤謬に満ちているため、取り上げるに値しない。)

  ●インターネット上で女を自称する人物による「見知らぬ者と性行為をしたが、楽しく、帰りたくないと思ったことから、被害者が帰らなかったことが分かる。」という趣旨の言明から、同じ女の意見は信憑性があるのであり、被害者が帰らなかったのは楽しかったからであるということが帰結する。

  この考え方には3つの論点がある。それを論駁とともに示そう。

  (a) 「見知らぬ者と性行為をしたが、楽しく、帰りたくないと思ったことから、被害者が帰らなかったことが分かる。」という、ある1人の女の見解を根拠としている。
   ⇒演繹法ではなく、帰納法に依拠している。
  (b) 「ある女の意見はすべての女の意見を代表する。」という見解を表明している。
   ⇒実験すらせずに、ただ1つの事柄を以って全体を語るというのは、帰納法の使い方を誤っている。
  (c) 「被害者が帰らなかった」という能動文を用いている。
   ⇒被害者の行為を制限するものはただ彼女の心理的根拠のみであるという先入見がある。

  また、加害者擁護派による冒頭の言明は次の規範を含み持っている。

  ◆被害者が性的脈絡における期待をしていたならば、彼女を強姦、暴行、殺害をしてもよい。

  実は、誠に残念ながら、この規範についても論証と呼べるような種類のものが提示されていない、稚拙な言明となっている。ここにおける前件によって後件が直接に導かれるならば、たとえば次の規範が正しくなると考えてもよいはずである。

  ◇被害者が現実世界から離脱し虚構世界へ行きたいと思っているならば、彼女を殺害してもよい。

  この文は、先に挙げた、加害者擁護派による規範的言明と同様に、前件が後件の論理的根拠となり得ていないうえに、ある不思議さも備えている。すなわち、加害者擁護派によれば「ある者が性的脈絡において期待することと、彼を殺すことが繋がっている」のであり、それがいかに頭の弱いものとなっているかを示すための仮説によれば、「ある者を殺害することによって、彼は虚構世界で存在できるようになる」のである。)
  また、この例が分かりにくいならば、次のように書き換えてもよい。(ただし、下記の文は「被害者が性的脈絡における期待をしていたならば、彼女を強姦、暴行、殺害してもよい」という命題とは異なり、不思議さを消失している。)

  ◇被害者が死にたいと思っているならば、彼女を殺害してもよい。

  この場合、法律の正しさを前提しないならば議論が巻き起こるであろうが、いずれにせよ(すぐ上の文にせよ、被害者擁護派の規範にせよ)、法律を前提するならば即誤謬となり、法律を前提しないならば認識論と存在論についての最終回答が提出されない限り正しく「なり得ない」のである。

  また、逮捕されなかった者や書類送検されなかった者を擁護する際の言明としては、そのまま「逮捕されなかったことや書類送検されなかったことが犯行を行っていないことと悪でないことの根拠である」としている。しかしながら、これについても前件から後件を推論することはできない。単に証拠不十分(証拠が揃わなかっただけ)や政治的な駆け引き(在日チョンの組織的妨害)という経緯があるだけかもしれないし、悪であるかどうかは法のみを基準にするのが正しいという判断も独断である。
[PR]
# by l-game | 2009-03-02 06:05 | 懐疑論思想チップセット