懐疑論思想チップセットを埋め込んでやる。


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環境問題と人間原理

  ◆現在生きている人びとが天然資源を使いまくった場合とアホみたいに節約した場合とでは、未来に生まれるであろう個体が異なる。
   ⇒環境問題喧伝バカは生まれ得ない対象を心配するというわけの分からない行為をしている。

※しかもこの事態は、複雑系理論が正しかろうと、非決定論が正しかろうと成立してしまうという、環境問題喧伝バカにとって悪夢のような事態である。
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# by l-game | 2009-03-02 05:34 | 懐疑論思想チップセット

建設大臣とは何か。

  建設的とか生産的とかいう語を好み、非建設的とか非生産的とかいう語で他者を攻撃することを好む者(言わば建設大臣)は独断バカである。
  あることが建設的、生産的なことであると言えるためには論証が必要であるし、彼らが前提している、建設的、生産的なことが善であり、非建設的、非生産的なことは悪であるという規範(善や悪の定義によっては自身の議論に対する攻撃になりかねないことに注意したほうがよいかもしれない)が正しいということを示すにも論証が必要であるし、建設的、生産的なことをしなければならず、非建設的、非生産的なことをしてはならないという信念が絶対確実に正しいかどうかについても論証が必要である。
  そして、これに対して常識を持ち出して片づけようとする者は、絶対確実かどうか分からないことを絶対確実であると思い込んでいる独断バカであると先に指摘しておく。
  建設大臣はまた、自らが建設的、生産的であると思い込んでいるものの正しさを疑わないにもかかわらず、建設的、生産的でありさえすれば議論が誤っていたとしても問題はないとする、言い換えるならば建設的、生産的であることを教条とする自己論駁的な立場に立脚してもいる。
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# by l-game | 2009-03-02 05:33 | 懐疑論思想チップセット

懐疑論と虚無主義

  Wikipediaによれば、懐疑論は虚無主義に通じると考えられていた時代もあったらしいが、すべての懐疑論が虚無主義と繋がっているのではない。

  たとえば、ある対象についての一対の懐疑を考える。

  ◇~が正しいという信念  を正当化することはできるか。
  ◆~が誤っているという信念  を正当化することはできるか。

  いずれも前者〔空白以前の部分〕は感覚や感情であり、後者〔空白以後の部分〕は理性である。言い換えれば、上記の問いは感覚や感情に対して理性による判定を下すという図式となっている。
  ここで、いずれもが論証できない場合において、その信念(あるいは命題)の真偽はない〔答えが知り得ないのではなく、答えはない〕ととるか、真偽は原理的に決定し得ないととるかによってその後の展開が変わってくる。前者の場合には、理性は退場を余儀なくされるために虚無主義に至るが、後者の場合にはそうではない。
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# by l-game | 2009-03-02 05:31 | 懐疑論思想チップセット

誤った比較の仕方

  昔に比べて重大犯罪が多くなった、昔に比べて人びとがより働かなくなった、昔に比べてアニメが性的なものを前面あるいは全面に出すようになってくだらなくなったなどといったように、過去と比較して現在を評価する仕方をよく目にする。しかしながら、なぜ過去を基準にすることが正しいと言えるのであろうか。
  また、ここでは過去のなかからいずれかの時点を選択しているのであるが、たとえばそうした言説を弄する人びとが伝える歴史のうちの石器時代を基準にしようとは思わないであろうし、実際そうしている場面を目にしたことがない。彼らは、自らの感覚や感情によって、どの時代を正しいとするかを恣意的に決定していることを示しているように思われる。あるいは、過去を基準にすることが正しいとは考えていないならば、なぜ過去と比較して現在を論じるのであろうか。
  ここにはまた、さらに別の問題もある。それは、あることを比較するときに、他の状況が変化していることをまったく考慮しないことがあるということである。他の状況が変化しているならば、その比較していることについても変化があるというのは不思議ではないはずである。他のすべての状況が変化していない場合ですら、原理的にはあることだけが変化するということもあるのである。
  なお、冒頭に挙げた例のうち、「昔に比べて重大犯罪が多くなった」、「昔に比べて人びとがより働かなくなった」については、より頭の弱くない人びとは懐疑的である。すなわち、過去について流通している評価自体がそもそも本当かどうか疑わしい場合もあるのである。
  さらに、上記の2つよりも根源的な疑問は、過去と比較して現在が悪い状況になっていたとしてなぜそれが誤っていると言えるのかということである。

  上の例とは違い、共時的であるが、異なる空間間の比較も誤っている場合があり得る。たとえば、かつての日本人とかつてのアメリカ人の労働時間を比較して、日本人のほうが努力家であったということがしばしば言われるが、少なくともそこに見られる労働時間の差が日本人の労働の非効率性(もしくはアメリカ人の労働の高効率性)を示すものである可能性について検討を加えなければ、表層的な判断に終わってしまうことになる。
  ただし、自虐的に日本人の労働が非効率である可能性があるなどと述べたが、差し当たってその効率性は相対的なものである。それは、なぜアメリカ人を基準にせねばならないのかという疑問が残るからにほかならない。また、仮に相対的に非効率で、かつアメリカ人を基準にしなければならないという場合でも、効率についての努力はあまりなされていないかもしれないが、それを補うために量的な努力を行っているという点では、アメリカ人よりも努力家であると捉えることもできる。(あるいは、「日本人がアメリカ人よりも勤勉で、努力家である」という言説は、日本人の非効率性に対する皮肉なのか。所詮毛唐ならその可能性も考えられる。)

  人びとが、先述した2つの誤りと同程度の頻度で陥るのが「この程度で~」、「~よりマシ」、「~ぐらい我慢しろ」という考え方である。この考え方で行けば、「強姦されるよりマシだろ。痴漢ぐらい我慢しろよ。」、「殺されるよりマシだろ。強姦ぐらい我慢しろよ。」、「暴行されるよりマシだろ。金を盗まれたぐらい我慢しろよ。」などとなり、行き着く先は各人の感じる最悪の状況以外はすべて耐えなければならないという地点である。
  より頭の弱い者ならば、各人によって認識が異なっている可能性を無視して(実際異なっていると思うが)、他者における最悪の状況をかってに設定する(より厳密には多数派の感覚や感情に統一しようとし、それを強要する)であろう。
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# by l-game | 2009-03-02 05:29 | 懐疑論思想チップセット

理由と原因と責任の混同

  法廷に限らず、「あなたが~した、あるいは~という状態になったのはなぜか」という質問をしておいて、彼が「……だから」と、自身の感覚や感情といった心理的根拠を示したことを受けて、「○○のせいにするのか」と責め立てる行為には、被質問者の回答が原因を提示したものと解釈するバージョンと理由を提示したものと解釈するバージョンの2種類があり、そのいずれにも2つの混乱が見られる。
  これは原因概念自体の困難性にも依拠しているが、原因の探求というものが困難である以上、寛容の原理に基づくならば、冒頭の質問文は、原因ではなく理由を問うものであると解釈するのがより適当であろう。すると、「○○のせいにするのか」という言明が原因バージョンの解釈である場合には、彼は理由を原因と取り違えているのである。そのうえでさらに、原因が責任と同一視されている。他方、「○○のせいにするのか」という言明が理由バージョンの解釈である場合には、彼は論理的根拠と心理的根拠を混同している。被質問者による回答は、心理的根拠の提示であるにもかかわらず、質問者はそれを論理的根拠と見なしたのである。加えて、こちらの解釈の場合においても論理的根拠が責任と同一視されている。

  原因と責任は同一であるとする見方が誤っているのは、その見方を採用するならば「~を原因と考えること」が「~に責任転嫁すること」になるが、その場合、自然科学における探究はすべて責任転嫁になってしまうことから分かる。(そもそも、原因と責任を同一視する立場においては、原因は悪である、もしくは悪であってはならないという前提が無批判に採用されている可能性もある。)
  他方、論理的根拠と責任は同一であるとする見方が誤っているのは、簡単な三段論法(「AはBである」+「BはCである」→「AはCである」)を例にとって見れば分かる。
  こうした言明を受けて、それでは心理的根拠は責任と同一視できないのかと思う者もいるかもしれないが、冒頭の被質問者が述べたような心理的根拠は、質問に対して単に自身が当該行為をしようと思った、もしくは実際に行った経緯や動機を(自らの意識する限りにおいて)示しただけであり、責任とは異なっている。


  補  遺

  『地獄少女』というアニメに、妻に経済的に楽をさせるために仕事に精を出し、子どもが生まれてきて以降はさらに努力に勤しむ男が登場した。ところが、妻は寂しさのあまり他の男と性交することになる。その場面を目撃した男は妻を許容せず、「やり直したい」という妻に対して「裏切り者を信じることはできない」という趣旨の返答を行う。そして妻は車に乗り、男の下を去るのであるが、いくらか車を走らせたところで電柱に激突し、死亡するのであった。車が何かを衝突する音を聞きつけた男がその場所まで赴いたときに述べた言葉が、「俺のせいじゃない。俺は悪くない。」というものであった(と思う)。
  これを見たときに、まず思ったのは、男が妻に向けて放った言葉は果たして上記の交通事故の原因となっているのか、そしてそうであるとすれば原因とはいったい何であるかということである。というのは、妻が、「自動車の運転技術に相対的に未熟」で、「雨の降っている」「夜〔暗い場所〕」、しかも「住宅街のような狭い道」を運転するのは、「自動車の運転技術に相対的に習熟しており」、「晴れた」「昼〔明るい場所〕」、しかも「視界の開けた場所」を運転するよりも事故を起こしやすくなるからである。また、「男の言葉に動揺した」ということを根拠とするにしても、それが原因ならば男がその言葉を述べるに至った原因を想定することができないであろうか。つまり、なぜその男の言葉を何の論理的根拠もなく開始地点に設定することができるのかということである。たとえば、「妻が他の男と性交したこと」、もしくは「妻の肉便器性」が「男の言葉」の原因となっているかもしれない。そして、「妻が他の男と性交したこと」の原因は「男が勤労のために妻を放ったらかしにした」(ただし、仕事以外ではできるだけ妻と行動をともにしているということを一般に思わせるような描写がなされていることに注意してもらいたい。)であるかもしれない。こうしたことを続けていけば、いくらでも原因を遡っていくことができる。(とは言え、現状の人の能力には限界があるだろうから、どこか、たとえばビッグバン当たりで止まってしまうかもしれないが。)
  「男が妻に向けて放った言葉は果たして上記の交通事故の原因となっているのか」という疑問を持つことになったもう1つの感覚は、「男の言葉に動揺した」というのは原因ではなく、理由と呼ばれるものである可能性があるというものである。いずれにせよ、原因というのが、『地獄少女』において行われたように、場面ごとでぶつ切りにして語れるものであるのか、それとも私が示唆したように、どこまでも辿っていくものとしてあるのかということ、またそのどちらの場合においても、原因と結果が常に一対一対応しているのかということが問題である。
  次に、責任についてであるが、「俺のせいじゃない。」という文が「俺の責任ではない」という文に置き換えることができるものとすれば、それに対して主人公が述べた「~(~はその男を指示する)のせいである」という趣旨の言明は「~の責任である」ということになる。このとき、原因が辿っていけるものであるとするならば、なぜその男に妻の交通事故の責任が生じるのであろうか。もっと言うならば、原因が辿っていけるものである場合、その男に交通事故の責任があると考えることは、その男にその行為を生じさせた責任が他者、究極的には大本である何か(ビッグバン?)に責任があると考えることになる。果たして大本の何か(ビッグバンか何か)に責任が帰せられるのか。そもそも責任という語には他者を責め立て、そしてそのことを許容するものであるというのが一般的な印象であると思われるが、そこには独断が潜んでいるのではなかろうか?(たとえば、「責任という概念を放棄すれば人間社会が成り立たない」と言う場合には、その背後に「人間社会が成り立たなければならない」という独断を見て取ることができる。)
  あるいは、『地獄少女』における件の例は、あくまでも一場面を切り取って原因もしくは責任を追及しているだけであると言う場合には、なぜわざわざその一場面を切り取る必要があったのかと問うことができる。(これに対して、「それでは『地獄少女』という虚構作品が成り立たないといったようなメタ的な批判は的外れも甚だしい。『地獄少女』の例が不適切であると言うならば、同様の行為〔責任追及〕がこの世界でも頻繁に生じているのであるから、そちらで考えてもらってもよい。)
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# by l-game | 2009-03-02 05:27 | 懐疑論思想チップセット

楽な方へ

  楽な選択をすることを非難する者は多い。
  しかし、人は常に楽な方へ進むという可能性がある。(以下はその例である。)

  ◆死ぬか死なないかという選択の結果、死ぬにしても死なないにしても、どちらもそのほうがより楽だからそうするだけであるかもしれないし、

  ◆処世術を駆使するのも、できるだけ使わないようにするのも、そのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、

  ◆共同上の主観に対して無批判であることも、そこで採用されている独断を批判することも、ともにそのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、

  ◆働くのは、働かないことによって得られる、飢えや他者からの攻撃を恐れる、あるいは働かないことは非道徳的であるという先入見を持っているがゆえに、働くほうが楽だと思うからそうしているだけかもしれないし、

  ◆労働をファッション化、ステータス化するのは、労働による苦痛や、労働しないことによって得られる苦痛を考慮した結果として半強制的に労働させられているという思いを持つに至り、その思いを源泉とする苦痛を取り除こうとしているだけであるかもしれないし、

  ◆その社会の多数派によって苦労ならびに/あるいは苦痛と見なされている何かを常に選択する者は、そうするほうが楽とされている方向に行くよりは苦しくないと感じている、したがって多数派の価値観における苦痛のほうが楽であるからかもしれない。

  これに対しては、たとえそうであったとしてもそのような性質を絶えず戒めることが重要なのであるとの反論もあろうが、上記の考え方を適用すればその反論を行うこと、あるいは行わないこともまた楽な方へ進んだ結果であると言うことができる。
  他方、この考え方の難点は、すべての行為は行為者の思うままであるという独断的前提によって支えられているところである。
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# by l-game | 2009-03-02 05:16 | 懐疑論思想チップセット
  われわれは、実姉に欲情する者どもを2種類に区分することができる。すなわち、実姉絶対王政と実姉帝国主義とがそれである。

  実姉絶対王政とは、実姉にすべての権利や権限を委ねる立場であり、弟の鑑であると言える。この立場によれば、弟は実姉の意向を最大限汲み取り行為することになる。たとえば、実姉が、自分の発言したことを忠実にやればよいのであって、余計な配慮は不要であるという態度をとっていれば、弟はそのとおりにするし、反対にすべてを言わせるのではなく、主体的に自分のために行為してほしいと願っている場合にも、弟はそのとおりにする。
  つまり、この立場における弟は、実姉の思いどおりになることが自分の幸福であると考えるのである。したがって、精神的に優位に立つのは常に実姉であると言うことができる。

  これに対して、実姉帝国主義とは、実姉絶対王政を含み、そのほかにも性的観点からみた実姉の価値を絶対化し、全人類がその価値に基づき行為するように強要する立場まで含んでいる。したがって、実姉絶対王政型でない実姉帝国主義においては、それを唱える者は実姉を自分専用の淫乱肉奴隷にしようと目論む、日常レベルの用法における変態である。(彼が科学者となったとき、周囲の者は彼をマッド・サイエンティストもしくはそのまま変態科学者と呼ぶだろう。)
  ここで注意しなければならないことは、淫乱肉奴隷と言っても、必ずしも厳しい調教を含むものではなく、したがって実姉に悲壮感や絶望感が漂っているとは限らず、また性交だけを望むような状態であるとも限らないということである。たとえば、弟としての私の理想的状況は、開始時点から実姉がこの私の淫乱肉奴隷になることを望んでいるというものであり、これは言い換えれば性的脈絡においても、非性的脈絡においても実姉と仲が良いという状況である。
  なお、非実姉絶対王政型実姉帝国主義においては、弟も精神的優位性を得られる可能性はある。(弟が精神的優位性を得られるかどうかは、ただ弟が実姉といかなる関係性を持つことを望んでいるかという点にかかっている。私はもっとも好ましい実姉に対しては精神的優位に立つほうを選ぶが、それは通常のものに比べてより複雑なものである。具体的には、実姉に自分は弟よりも優位であると思い込ませて、その状況を楽しむというものを望んでいる。)


【姉教団の派閥】

◇実姉派……「姉と言えば実姉以外になーし!」という主張をする人びとの派閥。さらに、実姉絶対王政派(穏健派)と実姉帝国主義者(急進派)に分かれている。
◇姉一般派……「姉的なもの全部好きだよ」という無節操派と「実姉を否定しないが、積極的に好むわけではない」寛容派からなる派閥
◇反実姉派……「実姉に欲情するなんて信じられない」という人びとが形成する派閥で、「実姉以外全部に食指が動く」無節操派、義姉派、従姉派、隣人派に細分化される。(←この派閥を姉教団に含めてもよいものか、と悩んでしまうところではある……。)


  なお、私的実姉創造史については、忘却している部分もあるので省略する。
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# by l-game | 2009-03-02 05:14 | 闇鍋的

淫乱肉奴隷思想

  私が対象を淫乱肉奴隷であると判定する基準は以下の2つの必要条件による。

◇必要条件
(a) 性的脈絡における評価:私の好む総体的外見=顔のつくり、表情、雰囲気、身なり〔髪型と服装〕、体型、立ち居振る舞い、声質、話し方、およびそれらの全体的な現れをしていること(いわゆる外見的要素が好きであること)
  →「好む」というのは、「許容する」よりも厳しい基準であるが、必ずしも「選好している」必要はない。(たとえば、大学で実施される100点満点の試験において最高判定が確定する境界線が90点であると仮定するとき、「選好」は90点に該当し、「好む」は及第点である80点に該当し、「許容する」は可と不可を分かつ基準の1つである50点に該当する。)
  →この条件を満たせば「欲情対象」となる。
(b) 社会的脈絡における評価:一般人でないか、一般人と非一般人の境界に位置していること(一般化するならば、いわゆる外見的要素が好きであること、かついわゆる内面的要素が嫌いでないこととでもなろうか。)
  →必要条件(1)とこの条件を満たせば「性交対象」となる。

  さらに、次の2つの十分条件を満たしていればより良い淫乱肉便器であると言うことができる。

◇十分条件
(1) 性的脈絡における評価:私が好む、あるいは望むような思考、発言、行動/振る舞いを計算によらず、自然と行うこと(いわゆる外見的要素が好きであること、かついわゆる内面的要素が好きであること)
  →私の感覚を読み取って、そうしたことができるのではなく、私の感覚と自然に一致しているためにそうしたことができるのである。ただし、注意してもらいたいのは、この条件は従順であることを意味しないということである。(なお、私が好む思考、発言、行動/振る舞いの具体例を挙げることは、現状では能力的にできないため、省略する。)
  →必要条件(1)と必要条件(2)を満たしたうえで、この条件を満たせば「恋愛対象」となる。
(2) 社会的脈絡における評価:実姉であること、あるいは私に対して「無条件の肯定的配慮」(ロジャース(Carl Ransom Rogers)の来談者中心療法より)を自然と〔無意識的に〕行うこと
  →他の3つの条件を満たしたうえで、この条件を満たせば「信頼対象」〔信頼度が98%〕になる。

  図で表すと次のようになる。

【淫乱肉便器マトリックス】

                 必要条件
 ┌────────────────┬────────────────┐
 │                │                │
 │<性交対象>          │<欲情対象>          │
 │                │                │
社│非一般人、一般人・非一般人の境界│総体的外見が及第点       │性
会│                │                │的
的├────────────────┼────────────────┤脈
脈│                │                │絡
絡│<信頼対象>          │<恋愛対象>          │
 │                │                │
 │実姉、無条件の肯定的配慮    │自然な同化           │
 │                │                │
 └────────────────┴────────────────┘
                 十分条件


  また、淫乱肉便器や淫乱牝奴隷という表現もこれと同一のことを指し示している。

  なお、淫乱肉便器候補とは、総体的外見が私の設定している基準を超えているだけの存在者をいう。つまり、淫乱肉便器の必要条件のうち、性的脈絡における評価についてのみ基準を満たしている者ということである。ただし、現実という虚構以外の虚構世界の存在者、さらに実姉については、本来的に淫乱肉便器候補であっても、淫乱肉便器と呼ぶことがある。(対虚構寛容原理、対実姉寛容原理,注:虚構と言ってもあくまでもこの世界を基準にしての虚構であって、この世界もまた虚構である可能性は十分にあることに注意せねばならない。なお、私が認識している、現実世界における淫乱肉便器候補は2007年4月12日現在いない。(容貌以外の身体だけで選定するなら存在するが。))
  他方、準肉便器とは、肉便器認定される女の範囲が拡大を極め、収拾がつかなくなったために私が考え出した語で、欲情した受け手によって淫乱であるとされた(この種の受身形で記述せざるを得ない、あるいは受身で記述する能力しか持っていないことは遺憾である)女をいう。(したがって、本来的な肉便器であるとは限らない。肉便器という語の指示は、時代によって、さらには場所によって異なっているように思われるが、その場合、どれが絶対的な基準となるのか、それとも相対的なのか、あるいは理論とともに変化するということを絶対化することができるのかということが問題である。なお、準肉便器という語を案出するに際して、サイモン・ブラックバーン(Simon Blackburn)の準実在論を参考にしたことを付言しておく。)

  さて、総体的外見についての要求に限ったことではないが、「そのような女はいない」といったような言明がなされることがある。それが単なる感覚報告である場合には不問に処すが、「そのような女はいないという信念が正しいということを正当化している」、あるいは「そのような女がいると考えてはならない」ということを主張している場合には論証を要求する。
  特に後者は、先述したように優れて趣味の問題であるから、他者が自らの趣味を制限することに正当性があるという主張になっていることにも注意してもらいたい。もっと言うならば、「自らについてはありのままを受容してほしい」と思い、かつ「相手にはこうであってほしい」と思うのは二重基準ではないないということである。この事例を二重基準に変形させるならば、「「自らについてはありのままを受容しなければならない」という信念を持っており、かつ「相手はこうでなければならない」という信念を持っていること」となる。
  なお、「そのような女はいない」と誰かが言うような女がこの世界に存在する、あるいは可能世界に存在する、さらにはどこにも存在しないが仮想的に存在するという設定を行う者が注意したほうがよいと私が考えるのは、「そのような女がいなければならない」、あるいは「女であればそのようでなければならない」と考えるならば、「そのような女はいない」と言明する者と同じ愚を犯していることになるということである。
  最後に、(淫乱肉便器ではなく)肉便器という語については一般的な使用法に従うこととする。他方、性的公衆便所という語は、一般的には肉便器と互換可能なものとして扱われているが、私は先述した必要条件の双方を満たしていない女を指示する語として用いていることに注意してもらいたい。


  補  遺

  星島さんは、私が言うところの淫乱肉奴隷を欲していたと思われるが、星島さんのやり方では有象無象の肉便器しかでき上がらない。そもそも、この世界の構造を考慮するならば、この世界には淫乱肉奴隷が顕現し得ないという帰結が得られるのである。
  それを見抜けなかった点、あるいはその事実を受け入れられなかった点が星島さんの敗因である。
  しかしながら、星島さんが結果的に行ってしまったこと、すなわちある種の殺人は倫理的に正しいので称揚されるべきである。(すべての殺人が倫理的に正しいというわけではなく、なかには倫理的に誤った殺人もある。たとえば、在日チョン、部落民、暴力団、さらにはそれに類するDQNによる殺人は、いや殺人どころか呼吸することさえも問答無用で悪であるので、それら裁判についての裁判員になった際には議論の開始時点で有罪に1票を投じ、以降は議論に参加しない予定である。)


淫乱肉便器候補生リスト
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# by l-game | 2009-03-02 05:14 | 闇鍋的
  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooですら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考える。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはならないことであるという可能性はある。)

  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべてを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版がオリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したところ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルートで購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そして、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては使えないと思う。


  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為からファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売することが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、したがって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版であるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。
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# by l-game | 2009-03-02 05:09 | 懐疑論思想チップセット

著作権にまつわる一断章

  (1) 著作権主義者は、無料で配付する目的で行う複製や賃借といった著作権侵害を行う者が、そうした行為の拡大によって企業が財務的に弱体化し、その結果として虚構作品の供給が(一般的に言えば、量的にも、質的にも)少なくなるという結末を受容しさえしていれば、彼をその論点で責めることはできない。
   (a) 著作権主義者は、著作権侵害によって虚構作品が質的に落ちるということを論証する必要がある。
   (b) 著作権主義者は、虚構作品の質と言う場合において採用されている質の比較方法は絶対確実に正しいということを示す必要がある。

  (2) (1)のような著作権侵害がまったくなければ、その分が単純に企業の利益になるという考えは誤っている。購入しないという選択肢もあるのである。実際に可処分所得は有限であるため、無料賃借ができないならば、買い控えるという選択をすることは日常茶飯事である。

  (3) 著作権なるものが近代文明のなかで生まれた概念である可能性を検討する必要がある。その場合、現在においてもそうした文脈=背景を変化させないままでいることが正しいということを論証しない限り、著作権概念の保持はなし得ない。

  (4) 著作権主義者が誤っている点は、著作権概念の擁護に際して、何らかの枠組みを無批判に前提していること、ならびに「自分たちが正しく、批判対象が誤っているから、自分たちはその批判対象を攻撃しなければならない、あるいは少なくとも攻撃してもよい」と飛躍することである。たとえ相手が誤っていたとしても、そのことのみから直ちに対象を攻撃する必要性があるとか、攻撃してもよいとかいう判断を導き出せるものではない。

  (5) 著作権侵害派が誤っている点は、たとえばアニメの静止画を公開しているウェブサイトやウェブログの作成者に見られる、「われわれの行為はある虚構作品やその制作会社の活況に一役買うことになるから正しい」という論点すり替えを行うことである。たとえそれが事実であったとしても、なぜそれを行うことが正しいかという問いに答えたことにはなっていない。
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# by l-game | 2009-03-02 05:08 | 懐疑論思想チップセット