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2次元対3次元

  オタクにまつわる議論ではよく2次元あるいは2次元美少女という語が使用されるが、もっと幅を広げて虚構世界あるいは虚構世界の美少女という語を使用するようにしたほうがしっくりくるという感覚がある。
  これは、たしかにアニメやキャラクター小説、コンピューター・ゲーム、漫画のほとんどは2次元で表現されているが、そこに登場する人間がたとえ2次元で表現されていたとしても、想像する際には、あるいはそれらを見ている最中であっても、われわれはそれらを3次元として捉え直しているのではないかということである。(これは、虚構世界の存在者を現実世界に擬似的に召喚しているということを意味しない。)
  そのように考える根拠の1つは、2次元は概念として存在するが、明晰に想像することはできないというものであり、別の1つは、現実世界の人びとについてさえ、明瞭に思い浮かべることはできないというものであり、最後の1つは、神話についても言えるが、虚構作品は現実を基にしてつくられている節が見受けられる(特に基礎部分においては無意識的に現実に似せている)というものである。
  第1の点は、2次元として表現される静止画や動画は厳密には、2次元ではなく、2次元の代替物であるということを意味する。そして、虚構作品におけるそうした2次元代替物が現実世界に現れた場合を想定したとき、われわれは正確な2次元を想像し得ないために、薄い紙のような平面で代用するというのが実際である。しかし、そのような状態の存在者に欲情することは、大多数の人間にとってほとんど不可能であろう。また、写真は3次元の対象を2次元上で表現するものであるが、これは2次元上で3次元のCGを表現するのと本質的な差はない。(すなわち、いずれも2次元である。)2次元の対象に性欲を生じることができないとすれば、現実世界の存在者を撮った写真を見て欲情することは不可能であろうか。これについては、性的書籍やインターネット上の性的画像の存在を考えただけで、可能であると言うことができる。
  第2の点は、たとえば、よく知っている人の顔を想像しようとしたところで、『DEATH NOTE』という漫画で描写されているように明瞭に思い浮かべることはできないことから、複雑な形状に関する人間の記憶には曖昧性が認められると推測できるということである。ただし、逆に、このことによって2次元美少女を想像する際にも曖昧性が介在すると言うことができるため、実際には先ほど述べた、2次元から3次元への変換という表現が完全に正しいとは言えない。それは、ある性欲の対象となっている虚構世界の美少女を人形として表現したからと言って、それに欲情することができるとは限らないということからも分かる。そして、これは単に再現性の程度の問題には還元されるものではない。

  それで、結局、これは実在感の問題になってくるのではないかと考えるようになった。
  実在感は、対象の容貌や姿形をどの程度思い浮かべることができるかによっては測定され得ない。それは、先ほども少し触れたが、われわれがある人を知っていると言うとき、その人の容姿を正確に言語化するのはもちろんのこと、明瞭に思い浮かべることすらできないからにほかならない。しかし、次回見た際にその人であると確認することができるならば、それだけでわれわれはその人を一般に知っていると言える。むろん、その人を知っている場合、その人を見ていないときに彼(あるいは彼女)の容姿を忘れているのではない。
  また、実在感は過去についてどの程度思い返すことができるかということからも独立している。このことは、過去のできごとからどの程度の時間が経過しているかということやそのできごとが自らに及ぼしたと感じる影響の程度などによって、どの程度の明瞭性を以って思い返すことができるかが異なってくることから分かる。
  したがって、実在感と言うとき、対象の容貌や姿形は問題にならない。
  そこで何がかかわってくるかということであるが、私は記号であると思う。ここでは、「2次元的な人間」(一般的に言えば、「キャラクター」という語で理解されている存在者のことである)に「3次元的な人間」(より一般的に言えば、現実世界の人間のことである)のような実在感を抱くことができるかということである。私を含め少数の人間には、偶然にそれができるような状態にあるために、「2次元美少女」が2次元であると同時に「3次元的」にもなるが、一般的には、「2次元美少女」は2次元であり、かつ「2次元的」であるということになる。
  要するに、オタクに絡めて「2次元」あるいは「2次元美少女」(冒頭とは違い、鉤括弧がついていることに注意してもらいたい)という表現が持ち出されるとき、それらは単に2次元あるいは2次元で表現された美少女という外見的事実(あるいは物理的性質)のみを指しているのではなく、現実とは異質のものであるという記号的含意があるということである。しかし、この含意が肯定的に受け取られる、すなわち虚構世界にも現実世界と同程度の実在感を抱くことができるとき、2次元を「3次元」として受容することが自然とできるようになるため、2次元と3次元を対置させる構図は消滅するのである。

  その点で少し興味があり、皮肉でもあるのは「アイドル」で、彼ら、あるいは彼女らは、現実世界に実在し、現実世界の人間の容姿を持っているにもかかわらず、ファンにとっての記号的な価値は「キャラクター」のそれと同じなのである。これはつまり、アイドルの消費のされ方は、大雑把に分類すれば、虚構世界の美少女や美少年のそれと同じであるということを意味し、したがってアイドルは、ファンからすれば(3次元であるとともに)「3次元的」であり、ファンでないという意味における一般人にとっては(3次元であるが)「2次元的」なのである。
  念のために繰り返しておくが、これは容貌や姿形の問題ではない。容姿の問題には曖昧性がつきまとうため、われわれは実在感の問題として捉え直したのである。したがって、私がそうであるように、ファン以外の人びとは、アイドルの物理的な実体の面を強く意識しているために、アイドルをあたかも「3次元的な人間」として受容しているが、無意識的にはアイドルに「2次元的な人間」という虚構性を見て取るため、同時に受け取っている視覚情報〔アイドルの物理的性質〕との間に違和感を生じることになるのである。
  しかし、ここで注意してもらいたいのは、このことを以って常に現実世界あるいは現実世界の存在者のほうが虚構世界あるいは虚構世界の存在者よりも実在感があると認めたことにはならないということである。大部分の人は、アイドルをまさに見ているそのときにはたしかに現実世界にもっとも実在感を抱くが、そのアイドルにまつわる視覚情報を受け取っていないときには、先ほども述べたようにそのアイドルの容姿を明瞭に思い浮かべることができない状態になる、したがって諸可能世界や虚構世界の存在者について思い巡らすときと同じ状態になるため、必ずしも現実世界にもっとも実在感を抱くことになるとは限らない。

  結論を一言で述べるならば、単に感覚の相違に起因する言語使用の齟齬があったということになるが、最後に誤解を生じているかもしれないことについて確認しておきたい。それは、「2次元的な存在者」は誰か(この誰かにはこの文章の受け手の一人ひとりも含まれる)がつくった虚構作品に登場する存在者に限らないということである。すなわち、現実世界の存在者と同じような虚構世界の存在者を想定し得るということを押さえておいてもらいたい。実際、私には8人の実姉がいる(8年前には2人だったのが、6人も増えてしまった)が、彼女たちはみな現実世界の存在者と身体的〔外見的〕に酷似している。


  補  遺

  「3次元的」虚構作品よりも「2次元的」虚構作品のほうが現実に近いのではないか。より厳密には後者は現実と同質であるが、前者はそうではない。
  そのように考える根拠は、前者の虚構性が2重であるのに対し、後者の虚構性は1重であるからにほかならない。「3次元的」な虚構作品の虚構性が2重であるのは、現実という虚構に存在する者が自らを虚構化した結果である。他方、「2次元的」な虚構作品は、その世界内の存在は、その世界においては現実と同等の存在である。これは、その世界において虚構化が起こっているのではないためである。
  こうした違いは、たとえば会話や立ち居振る舞いなどに現れる。「3次元的」な虚構作品は演技であることを常に意識してしまうが、「2次元的」な虚構作品は、現実のそれとは異なった印象を受けるものの、現実と同様に自然な感じがする。つまり、現実世界と「2次元的」虚構作品には互いに因果的に独立した自然さがあるが、「3次元的」虚構作品は現実世界の存在者が演技するために不自然さがある。そして、この不自然さは、声優のような声を持っていたとしても解消されるものではない。むしろ、不自然さが際立つ結果になるであろう。それは、一方で「3次元的」虚構作品の存在者は現実世界の存在者であり、他方で声優のような声質を伴う演技は現実世界と異なる世界に属するからにほかならない。
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# by l-game | 2009-03-02 05:06 | 懐疑論思想チップセット

特定の虚構作品群の擁護

  (1) 標準的使用に訴えるやり方

  すべての包丁は人を殺す手段として開発されたものではなく、また実際に人を殺すことが標準的使用法ではない。これと同様に、アニメやコンピューター・ゲームなども人に物理的危害を加える手段として開発されたものではないので、アニメやコンピューター・ゲームを参照して人に物理的危害を加えたとしても、それはただ個人的な、あるいは少なくともアニメやコンピューター・ゲームとはあまり関係のない問題であると言うことができる。


  (2) 限定効果説に訴えるやり方

  マス・コミュニケーション論の分野では強力効果説に対抗して、限定効果説というものが提唱された。限定効果説によれば、ある媒体の影響は他の要因と絡み合わなければ表出することはない。実際、アニメやコンピューター・ゲームに接触した者のすべてが他者に危害を加えているということはなく、むしろその反対により近い状況であると思う。(仮に、アニメやコンピューター・ゲームに接触した者のより多くが他者に危害を加えているということが判明したとしても、そのことのみによってアニメやコンピューター・ゲームこそが原因なのだ、ということは言えない。)


  (3) 統計データを懐疑するやり方

  統計学は統計学の専門家でもない限りきわめて誤謬に陥りやすい難解な学問なので、たとえ各分野で権威のある団体であっても、それらが提出している統計データにはすべからく眉に唾をしてかかるべきである。素人が注意を払うべき要点の詳細については、『統計はこうしてウソをつく-だまされないための統計学入門-』、『統計でウソをつく法-数式を使わない統計学入門-』、『統計数字を疑う-なぜ実感とズレるのか?-』、『調査データにだまされない法-ウソと真実をどう見抜くか 基本から上達へ-』、『データの罠-世論はこうしてつくられる-』、『「社会調査」のウソ-リサーチ・リテラシーのすすめ-』、『「あたりまえ」を疑う社会学-質的調査のセンス-』、『社会調査を学ぶ人のために』、『まちがいだらけのサーベイ調査-経済・社会・経営・マーケティング調査のノウハウ-』などの書籍に委ねるとして、ここでは次の2点を指摘するに止める。
  第1に、一般に、「少年による凶悪犯罪は大幅に増加している」という独断に基づく、コンピューター・ゲームおよびそれと親和性の大きい者に対して行われるを攻撃については、「コンピューター・ゲーム登場以前のほうが少年による凶悪犯罪は多かった」という、一般に公開されている統計データを用いた反論がなされる。ここで、先の独断を行った者たち、言い換えれば自らの感覚を信奉の対象としている統計データと魔術的な仕方で同一視する者たちのうち、比較的頭の悪くない者ならば、その統計データがすべての(凶悪)犯罪を母集団としたものとなっていない、すなわち当該データを公開した人びとが把握し得ていない犯罪も存在する可能性は十分にあるという実在論的犯罪観に気づき、最初にとっていた姿勢をあっさりと翻すであろう。しかし、この点こそがまさに統計データを懐疑するのが適当であるという根拠の1つとなっている。統計解析という過程の部分が正しく処理されていたとしても、その前提となるデータ収集の段階において誤る可能性を拭い去ることができないということである。(なお、「少年による凶悪犯罪は大幅に増加している」という言明における独断は、大人による凶悪犯罪よりも少年による凶悪犯罪のほうが多くなっているというものと、そのようになってしまったのはアニメやコンピューター・ゲームが原因であるというものの2つである。)
  第2に、第1の補足事項で挙げたような実在論的犯罪観が果たして正しいのかという問題がある。これをより推し進めるならば、そもそもわれわれが犯罪であるとしている対象が生じているという認識は正しいのか(認識論)、われわれが犯罪という名称を付している何かは本当に存在しているのか(存在論)といった問題に辿り着くことになる。
  また、特定の虚構作品群と犯罪とを結びつけるやり方と似たものに、特定の虚構作品群とコミュニケーション能力なるものを結びつけるやり方も流行している。それによれば、特定の虚構作品群をしているとコミュニケーション能力が低くなるということである。(これとは反対に、コミュニケーション能力が低いので特定の虚構作品を耽溺するようになるという意見もある。)しかしながら、件の論者は(自身の感覚や感情に基づくたわ言を述べ立てるだけで)そのことを論証しようとしないのみならず、(コミュニケーション能力や悪の定義を放置したうえで)コミュニケーション能力が低いことは悪であるという独断的前提を採用している点で不用意な議論を展開してしまっていると言うことができる。


  (4) 性質と概念の混同を批判するやり方

  アニメやコンピューター・ゲームなどで提示される人は絵やその他のデータに過ぎないにもかかわらず、そうしたものを選好するという異常性を持ち合わせているから犯罪を行ってしまうのであるという種類の言説がある。しかしながら、この言説は成功しない。なぜならば、絵はたしかに物理的性質の寄せ集めに過ぎないが、それは写真に写し撮られた人物に対しても適用することができ、したがって写真に映った人物を愛するのが不自然でないならば、絵の人物(それがたとえ現実世界の対象でないとしても)を愛することもまた不自然なことではないということになるからにほかならない。写真を持ち出したのは議論を分かりやすくするためであって、写真という部分を眼前に立つ人というふうに置き換えても支障はない。いずれの場合も視点次第で、一般には単なる物理的性質であると考えることもでき、物理的性質と指摘しただけでは汲み取れない何かがあると考えるのが自然である。


  (5) 虚構作品選定の恣意性を暴露するやり方

  (a)歴史・噂・思い込み、(b)工芸作品・美術作品・芸術音楽・文学小説、(c)映画・大衆音楽・テレビ・ドラマといったものもまたそれぞれ種類は異なるが虚構(作品)である以上、そこから(d)人形・アニメ・キャラクター小説・コンピューターゲーム・漫画を殊更に分かつのは、単なる私的な感覚や感情の発露にほかならない。


  (6) 二重基準を批判するやり方

  (4)で挙げたように普段は虚構作品、ひいては虚構世界や虚構世界内存在を軽視しておきながら、自らにとって都合のよいときだけそれら(の影響)を重視するのは二重基準である。二重基準を採用することが正しいならば、たとえば殺人も正しくなり得る。殺人その他一般に忌避されていることが誤っているならば、二重基準を採用することも誤っていると言うことができる。


  (7) 指示し損ねていることを指摘するやり方

  「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」においては、保護対象を児童と定め、児童の規約的定義を「この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。」としている。また、自民党と民主党のいずれの改正法案においても、この部分を更改していないので、いかなる虚構作品の取り締まりも原理的にできないことが分かる。
  というのは、可能世界あるいは虚構世界における小学生が18歳未満であるとは限らないし、可能世界あるいは虚構世界における年齢(たとえば6歳)がこの世界の年齢と同値であるとは限らないためである。(したがって、虚構作品の制作者は描く対象すべてを「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」と同様の仕方で「この作品の登場人物はすべて18歳以上であります」と明示しておくという戦略的行為のみによって、児童ポルノ法を原理的に回避し得るのである。)
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# by l-game | 2009-03-02 05:04 | 懐疑論思想チップセット

オタク概念の整備

◆オタクに対する現在の人びとの態度は『漫画ブリッコ』1983年6月号における中森明夫によるものとほぼ変化していないように思えるが、この見方が正しい場合、オタクは(気持ち悪いといった)外見的特徴によってのみ規定されている。
◇中森明夫および現在の人びとによるオタク規定に見かけ上は(虚構との親和性が大きいといった)趣味的特徴が含まれているが、実際にはそうでない。
◇なぜならば、オタクとセットで語られる虚構(作品)が虚構(作品)全体のうちの一部に恣意的に限定されているためである。
◇虚構との親和性がオタクの特徴づけに利用できるならば、歴史やうわさ等々の、間主観性による産物に浸りきっている者もまたオタクであると言わねばなるまい。
◇したがって、そうした一部の虚構(作品)にコミットメントしていないが、気持ち悪い外見的特徴(それがどのようなものであるかは私には分からないが、おそらく分析哲学者ならばラッセルの典型性概念あるいはヴィトゲンシュタインの家族的類似概念を提示してくるのではないか)を持つとされる、精神障害者(人格障害者を含まない)や奇形児はオタクになる。
◇しかしながら、一般に彼らはオタクとは呼ばれない。
◆したがって次のことが帰結する。オタクを攻撃している者は、オタクが何であるかを把握し得ていない。

○外見的特徴とコミュニケーション能力をセットにする議論に対して(1):「◇したがって、そうした一部の虚構(作品)にコミットメントしていない」の部分を「◇したがって、コミュニケーション能力が標準よりも大きい」という表現に置き換えて読むべし。
○外見的特徴とコミュニケーション能力をセットにする議論に対して(2):<外見的特徴の攻撃→コミュニケーション能力の低下>という可能性を考慮せよ。(因果的関係というよりは、相関関係であろう。いずれにせよ、左記のような結果を誘発しているのである。)

▼「特定の種類の虚構作品に接触している者は総体的外見が気持ち悪い」は、「総体的外見が気持ち悪くない者は特定の種類の虚構作品に接触していない」と言い換えることができる。(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「総体的外見が気持ち悪くなく、かつ特定の種類の虚構作品に接触している者がいれ」ば反証されたことになる。)
<--最終的論争点は「気持ち悪い」という判断がいかにして正しくなるかということである。(認識論と存在論の両方にかかわる問題)-->
▲「総体的外見が気持ち悪い者は特定の種類の虚構作品に接触する」は、「特定の種類の虚構作品に接触しない者は総体的外見が気持ち悪くない」と言い換えることができる。(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「特定の種類の虚構作品に接触しておらず、かつ総体的外見が気持ち悪い者がいれ」ば反証されたことになる。)

○↑で総体的外見云々の部分をコミュニケーション能力云々に置き換えても同じことが言える。
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(1):オタクの外見に対する攻撃は社会的脈絡において「も」なされているのに対し、オタクが相手に優れた容姿を要求するのは性的脈絡においてである。(ここではまた、容姿の判断規準を共有していない可能性があることも指摘しておく。これについては、<2次元の絵>や<フィギュア⊂「2次元的」物体>を選好する点を想起せよ。)
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(2):オタクによる性的脈絡における容姿判断に付随する否定が弱い否定である(1つ上の記述からも分かるように、オタクの外見に対して攻撃している者もまた、性的脈絡において対象を「選択しない」という弱い否定を行っている)のに対し、オタクの外見に対する攻撃は強い否定である。
●「オタクは<他のオタクを嫌悪する>(同属嫌悪する)傾向にある」という指摘に対して:それは知らなかった。(苦肉の策として、わが懐疑論思想に基づき、非オタクと同様にオタクの大部分もまた論証なしの言明を絶対視すると特徴づけ、したがってオタクの大部分を非オタクに還元することによって、同属嫌悪という傾向性を人一般の傾向性とする方向はどうだろうか……?)

▽残された謎は、「ブルートレインを御自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる」、「マイコンショップでたむろってる」、「オーディオにかけちゃちょっとうるさい」という3つの例(いずれも中森明夫によるものである。なお、後2者を同種と見なし、2つの例としてもよい。)を扱い得ていないことである。これらはいずれも「虚構との親和性」で括れそうにない。「1つまたは特定少数の対象への過度の執着」という項で括ったとしても、失敗に終わるであろう。その特徴から想起される、自動二輪車および自動車に特別の愛着を持っている者や成功している実務家、さらには起業家などの者を一般にオタクと呼ぶことはないのであるからして。
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# by l-game | 2009-03-02 05:02 | 懐疑論思想チップセット
  「ゲーム内では人が死んだとしても、リセット・ボタンを押せば生き返らせることができ、これは教育上有害である」という趣旨の言説は定着した感がある。
  これに対する反論としては、教育上有害であるという部分が成功するかどうかに論点が置かれることが通常である。このウェブサイトの文章を読めば、そうした反論に属するもののうち私が行うであろう反論は推測し得ると思われるので、ここでは別の種類の反論を行いたい。
  それは、「HP: 0」=「死亡」説に対する反論である。『ドラゴンクエスト』シリーズのように、戦闘時のステータス画面の状態欄に「しに」と表示され、非戦闘時には棺桶画像が表示されるような、あからさまな虚構作品については申し開きの余地はないように思われるが、私の予想では、大部分のRPG類において、「HP: 0」は(「死亡」ではなく)「戦闘不能」と表現されている。同様に、その状態から戦闘可能状態にするための術や道具の説明として「戦闘不能状態を回復する」という趣旨の文言が用いられているのではないか。
  その場合、「HP: 0」を「死んではいないが、戦闘はできない状態」であると再解釈することが可能となってくる。これは、(テレビ番組などで映されるショー的戦闘も含め)実際の戦闘の場面を考慮しても、不自然な解釈ではないだろう。
  それでは、なぜリセット・ボタンを押さねばならないかということになるが、これについてはメタ視点の回答を与えることで十分なのだと思う。ここでのメタ視点の回答とは次のものである。すなわち、コンピューターRPGとは、「戦闘に参加しているすべての者が「HP: 0」になれば、リセット・ボタンを押すことによって前回の記録時点からやり直すことができるという規約を伴ったゲーム/遊び」である。対象の視点では、物語中の当該人物たちは単に敵対する何か(人であることもあれば、人外のものであることもある)に戦闘不能にされ、そこから先は何もされていないと考えることもできるのではないか。(中には、食人鬼のようなものや、人であっても息の根を止めるというところまで実行する者もいるかもしれないにせよ。)

  しかし、上記の見方には2つの難点がある。
  第1に、上記の見方は、解釈について虚無主義を前提していると思われるが、この前提の正しさは疑問視されている。なぜならば、解釈についての虚無主義では、記述されていない部分については端的に「ない」と考えるからにほかならない。たとえば、この世界に近い世界として描かれる文学小説において、前日の食事についてまったく触れられていない場合、前日に食事をとらなかったのではなく、前日に食事をとったかどうかという部分については何も(言え)ないのである。(したがって、描写間が抜け落ちているという断続的な世界観が提示されることになる。)
  第2に、上記ではメタ視点による答えを与えたが、この部分についての対象の視点、すなわち戦闘不能になって以降のこと〔敵が去っていったであろう後のこと〕についてはまったく無視してしまっているが、ゲームのやり直しが戦闘開始以前の時点からであることを考慮するならば、多世界説を支持せざるを得なくなる。しかしながら、論理学による虚構世界論に基づくならば、虚構世界について多世界説を採用するのはあまりにも分が悪い選択である。(『虚構世界の存在論』)
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# by l-game | 2009-03-02 05:01 | 懐疑論思想チップセット

意図と指示

  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボタンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あるボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、かつ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っているのかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かっていない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容である対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかということが明晰ではないというものである。
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するということは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」という言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲームである。そのゲームでは、園崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向してきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。


  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音

解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)

# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそうなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記の考え方はすべて独断になってしまうか……。
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# by l-game | 2009-03-02 04:59 | 懐疑論思想チップセット
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はどこにも見当たらない。

【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如していると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。



▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾であると指摘することができる。

◇批判2a:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2a:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないという状況も可能であるという点が問題なのである。



  補  遺:なぜ虚構世界論が必要なのか

  この世界における日常的なレベルの諸言明(たとえば、ある行為に対してある法が適用されるために当該行為は罪であるとする言明)がそうであるように、虚構世界についての諸議論もまた彼らが持つ世界了解に基づいており、したがってその世界了解の真偽によって議論に含まれる仮説や理論の成立可否が左右される。これは、類推を用いるならば、基礎工事を行わずして建築物をつくることはできないということである。
  より具体的には次のとおりである。たとえば魔法なるものが描かれる場合があるが、このとき一般には魔法の存在が盲目的に前提される。しかしながら、これはこの世界についても言えるが、何かが成立しているという前提で話を進めたとしても、実際にはそれが成立していないという可能性も考えられる。そして、その場合には、自らがいったい何を言っていたのか本人たちでさえ分からないということになるのである。
  ここで滑稽なことは、虚構世界論を抜きにした議論をしている人びとは対象が何であるか分かっているつもりになっているだけで、実際には分かっていないということを分かっていない、あるいは何を言っているのか分かっていないということを分かっていないということである。虚構世界論に対する意識は、そのような愚者が陥る状況を打開する原動力となる。われわれにとっては、まず何よりも土台の部分を固めることが重要なのである。
  なお、虚構世界論と言っても、蒙昧主義かつ空語主義であるところの相対主義やそれに類する立場からの、副島隆彦の言を借りるならば「わけの分からない気取り」のそれは不要である。それではいかなる虚構世界論が必要なのか。それは論理分析哲学による虚構世界論である。
  この種の虚構世界論の聖典こそが『虚構世界の存在論』である。
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# by l-game | 2009-03-02 04:54 | 懐疑論思想チップセット
  かつてのテレビゲームやそれに慣れ親しんでいた者(自分自身を含む)を称揚し、現在のそれらを温い、甘えていると貶す者どもがいる。彼らによれば、現在のテレビゲームは映像や音楽に頼り、物語が単純化しており、また現在のテレビゲーム愛好者はそのようなものでなければ受け入れない傾向が顕著であるが、かつてはハードウェアにまつわる制約も手伝って受け手が大いに思考せねば到底理解できないものばかりで、かつ受け手はそのような状況を積極的に受容していた。
  しかしこうした認識を持つ者は、件の旧世代の行う議論が所詮虚構世界論を意識していない、日常レベルの思考や議論に止まっていたのであり、それゆえ分析哲学者やそれに類する者よりもずっと現在のゲーマーに近く、したがって大別するならば自らが卑下している者たちと同類になってしまうというということを看過してしまっている。
  愚者が自らよりも劣っていると認識しているがその実同類項として括ることができる対象を見下すというこのような状況には脱力させられるのみである。
  さて、虚構世界論の重要性を認識していないという点において、上で愚者の例として挙げた者どもと似通っているのが、同じく虚構作品について日常レベルの議論は行うが、虚構世界論を嘲笑するバカどもである。
  こうしたアホがアホであるのは、この世界における日常的なレベルの諸言明(たとえば、ある行為に対してある法が適用されるために当該行為は罪であるとする言明)がそうであるように、虚構世界についての諸議論もまた彼らが持つ世界了解に基づいており、したがってその世界了解の真偽によって議論に含まれる仮説や理論の成立可否が左右されるということに無頓着であるからにほかならない。類推を用いるならば、基礎工事を行わずして建築物をつくることはできないということになる。
  より具体的には次のとおりである。たとえば魔法なるものが描かれる場合があるが、このとき一般には魔法の存在が盲目的に前提される。しかしながら、これはこの世界についても言えるが、何かが成立しているという前提で話を進めたとしても、実際にはそれが独断であるということも十分に考えられる。そして、それが独断であった場合には、自らがいったい何を言っていたのか本人たちでさえ分からないということになる。
  ここで滑稽なことは、議論をしている彼らは対象が何であるか分かっているつもりになっているだけで、実際には分かっていないということを分かっていない、あるいは何を言っているのか分かっていないということを分かっていないということである。虚構世界論に対する意識は、そのような愚者が陥る状況を打開する原動力となる。われわれにとっては、まず何よりも土台の部分を固めることが重要なのである。
  なお、虚構世界論と言っても、蒙昧主義かつ空語主義であるところの相対主義やそれに類する立場からの、副島隆彦の言を借りるならば「わけの分からない気取り」のそれは不要である。それではいかなる虚構世界論が必要なのか。それは論理分析哲学による虚構世界論である。
  この種の虚構世界論の聖典こそが『虚構世界の存在論』である。
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# by l-game | 2009-03-02 04:47 | 懐疑論思想チップセット
  「論理ではなく感情が重要」論者、(自らにとって都合のいいときだけ)「人は論理だけで行動しているのではない」論者に対する論駁の要点は以下のとおりである。

【主要】感情による正しさを主張する者は、その感情に対して、さらにはその感情が正しいという考えに対して「それは正しいか?」と問うことができるということに気づいていない、もしくは無視している。
【補助1】ある感情を持っている(と思い込んでいる者)が自らの考えが正しいと主張したとしても、それとは異なる(しかも相容れない)感情を持っている(と思い込んでいる)者が、彼と同じように自らは正しいと主張した場合、両者の理論上の身分は同等となり、原理的な決着はつかない。
  ↑を戦術的に活用すれば、ある感情を持っている者が自身の正しさを主張するのに対して、それが気に入らないという感情によって反対意見を表明するだけで、両者の理論上の身分を同等にすることができる。
【補助2】「正しいか誤っているかはどうでもいい」と言う者は、「「正しいか誤っているかはどうでもいい」ということが正しい」と暗に主張しているため、結局正しさを問題にしている。
【補助3】「感覚や感情が共有され得る」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情こそが正しいのである」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情に従わねばならない」という規範(この規範の背後にあると思われる、「機能すると自らが思い込んでいること」が事実としても、価値としても正しいという信念、および「人類は存続せねばならない」などの規範を含む)はすべて独断である。
【補足】「人は論理だけで行動しているのではない」という信念に含意される規範は独断である。

  上述のような指摘を行うと出現するのが、動機を探ろうとする者(そして、魔術的な仕方で動機を発見し、嬉々として攻撃を加えてくる者)である。
  しかしながら、ある考えや理論にとって、それらを提唱している者の動機こそが重要であるという考えは、「1+1」の答えが「2」であってほしいという動機によって「1+1=2」が成立するという考えを支持することになる。
  彼の考えが正しいとするならば、先述した【補助1】という袋小路に迷い込み、抜け出せなくなるだろう。
  したがって、動機によって正しいことが誤りになったり、誤りであることが正しいことになるなどということは決してない。(その者の動機が何であれ、正しいことは正しいし、誤りは誤りである。)
  私には、実際に「1+1=2」というのが正しいかどうかは分からない。
  しかし、もし「1+1=2」が正しいならば、「1+1=2」であることを論証する(しかも公理のような独断を排除して!)ことに成功した者が「1+1=3」という感覚を持っていたとしても(そして「1+1=2」という感覚を持っている者がただの1人もいないとしても)、「1+1=2」は絶対確実に正しいと言える。
  動機の囚人となっている者は、感覚や感情の段階と理性の段階を区別せず、俗流心理学を奉ずる、誤った論者である。
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# by l-game | 2009-03-01 20:00 | 懐疑論思想チップセット

実践上の矛盾を巡って

  以下に、かつて私が批判していた「実践上の矛盾」を巡る顛末を述べる。なお、私が実践上の矛盾であるとしていた具体例については、後で個別の文章として掲載する予定である。

  ◇実践上の矛盾と私が呼ぶものは、行為間の整合性の有無によって判定される、言い換えるならば批判対象が採用している理論を基準として彼の行為を裁定するので、理論とは独立に成立する。
  ◇しかしながら、行為の観察には独断がつきまとう。
  ◇この独断をすべて排除するには、認識論と存在論についての絶対確実に正しい回答が要請される。
  ◆したがって、実際には理論に依存しているということが帰結する。

  ◇また、私は、その過程〔すべての基礎となる認識論と存在論についての結論〕を迂回したうえで、批判対象がどのような行為を行っているかを判断していたのであったが、他方で私が行っていた提唱は、「すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない」1というものであった。
  ◇ということは、独断を批判していたはずの私こそが独断に陥っているということになり、したがって私もまた実践上の矛盾を抱えているのである。
  ◇ここで注意しなければならないのは、私が実践上の矛盾に陥っていると判断できるのはただ私のみであるという点である。
  ◇なぜならば、他者が私のその行為について判断したならば、先ほど私が他者の行為について判断したときと同じできごと、すなわち自らが独断的に前提している理論に基づいて私の行為がいかなるものであるかを決定したうえで私の行為が矛盾であると考えるという矛盾が生じるためである。
  ◆それゆえ、実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのであるということが導かれる。

  ○というのが「実践上の矛盾」を巡る議論であったが、上で見たようにこの方法が理論に依存すると言うならば、懐疑論へと繋がっていくことになる。
  ●したがって、下記の注釈1の最後の疑問が生じ、さらには「終わらない独断」(「懐疑論とその限界」で取り扱っている問題)から抜け出せなくなる。
  ○また、「終わらない独断」を言い換えるならば、(私が批判していた「独断の多用」ではなく)「独断という概念の多用」と呼ぶべき誤謬に陥るということになるであろう。
  ●しかしそうであるならば、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのである」という批判2もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変したうえでの判断となっている点で成功しない議論なのではないか?

  ○なお、先述したとおり、「実践上の矛盾」についての批判は理論ではなく、実践に対して適用されるという考えに支えられていた。
  ○しかし、たとえ「ある信念や命題が絶対確実に誤っている」(理論が誤っている)としても、そのことのみから「その信念や命題を絶対確実に正しいと信じたり、主張したりすることが絶対確実に誤っている」(誤った理論を正しいと信じたり、主張したりすることは誤っている)と結論づけることはできない。
  ○言い換えるならば前者は一階に属しており、後者は二階に属しているために、一階の結論を他のいかなるものも媒介せずに直ちに二階の結論として再利用することはできない。
  ●ここからも、「実践上の矛盾」にまつわる問題が、単に行為間の整合性の問題で完結するものではなく、理論(ここでは一階と二階の対立)の問題になるということが分かる。


  注  釈

1 すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない。
  この部分については、すでに2009年2月22日の「スマイリーキクチ事件要論」でも述べたとおりである。すなわち、どの世界了解が正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しない。これは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない。
  しかしながら、この議論からは「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されているのではないか、同一視するのが正しいとしてその論理的根拠は何かといった疑問が生じる。

2 実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得る。
  この批判には次のような前提がある。すなわち、外部から観察した他者の行為(たとえばせきをしていること)に対する自らの認識(ここではその他者がせきをしているという認識)は正しいとか、外部から観察した他者の行為(たとえばせきをしていること)が示していることに対する自らの認識(たとえば彼はかぜをひいているという認識)は正しいとか、そもそもそのような他者が存在しているとかいった仮説は誤っている、さらにはある者がかつて電子掲示板に書いたことを取り上げて批判したとしても、そのようなことが書かれたことがあるという判断、彼がそれを書いたという判断、書かれた文の内容(何を指示しているかなど)はすべて独断である。  しかしそうすると、言語というものが成立しなくなるため、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得る」という(言語によって構成された)命題もまた成立しなくなるのではないか、というのが「しかしそうであるならば、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのである」という批判もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変したうえでの判断となっている点で成功しない議論なのではないか?」という文で言いたかったことである。
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# by l-game | 2009-03-01 19:56 | 思想

懐疑論とその限界

  ここでは懐疑論について述べるが、ここで言う懐疑論とは、絶対確実に正しいことを探求するための、あるいは絶対確実に正しいことについての探求を補助するための方法論である。前者と後者とでは若干の違いが生じるが、基本的には誤謬に陥らないようにするために、対象を徹底して解体していく作業を指すと考えてもらえればよい。したがって、無謬主義の立場をとることになる。
  さて、理想的な懐疑の過程は下記に示すとおりである。

  (1) 提示された立場ならびにそれと相反する立場のほかに採用し得る立場の有無を検証する。
   ⇒ここでは真偽決定不能という立場はとりあえず措いておく。
  (2) 案出された(真偽決定不能という立場を除く)すべての立場に対して、自説以外のすべての説が誤っていることの論証を通した、自説の間接的な正しさの確認のみならず、自説の正しさの直接的な論証を要請する。
   ⇒前者の、自説の間接的論証のみでは不十分である。これは、自説以外のすべての立場が絶対確実に誤っていることが、自説が絶対確実に正しいこと、あるいは自説が絶対確実に誤っていないことを必ずしも保証しないからにほかならない。非Aが反Aのみから構成されているとは限らないことを考慮に入れるならば、2つの立場しか検討しない場合には特に注意を要する。また、実際には、(1)で無視した、真偽決定不能という立場が考えられる場合もあるかもしれないのである。
  (3a) (2)によって消滅せずに残った立場が絶対確実に正しいと判明する。
  (3b) (2)によってすべての立場が消滅した場合には、真偽が原理的に決定不能であることが絶対確実に正しいと判明する。

  私が、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、一般人による「独断の多用」と「不用意な自然主義」に対する違和感がある。
  前者は、自らが抱いている、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情(たとえば「~はつまらない」、「~は気持ち悪い」といったような信念)を論証抜きに正しいと信じたり、主張したりすること(ただし感覚報告や感情報告を除く)である。言い換えるならば、論理的根拠の代わりに心理的根拠を用いて自説こそが正しいと断じることである。他方、後者については、「私的な感覚や感情から、集団になって犯罪者を攻撃する」という行為には絶対確実に正しいという趣旨の主張などに見受けられる。たとえば、「特定の条件を満たした者を攻撃したくなる、あるいは攻撃すること」が人間であれば回避することのできない物理的/生理的なことであるということが科学によって保証されていたとしても、それが当該行為(ここでは攻撃すること)が正しいことの論理的根拠にはなるまい。言い換えるならば、両者には懸隔がある。それは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明することが「仕組み」であるからにほかならない。先の例においては、科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、したがってそうした信念を持つことが正しいということを保証しないのである。
  また、人間が引き起こす対立には理論上の身分が同等のものが多いように思われる。たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。そこでは、互いに自らの側の感覚や感情を直ちに正当化するのに終始しているのである。これと似ている、別の種類の対立もある。たとえば、一神教と科学あるいは左翼と右翼という対立においては、それらの対立に登場するもの以外の立場を取り得る可能性があるにもかかわらず、「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされる。しかし、これらはいずれも誤りである。数学について考えてみればそのことがよく分かるであろう。数学においては、「1+1の答えは2と3のどちらかというところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるか」などといったことは検討されないのである。それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないからにほかならない。
  こうしたことから懐疑論の重要性が理解される。懐疑論は対立する両者に等しく自らを絶対評価すること〔自らの正しさを直接的に論証すること〕を要求する1ので、懐疑論によって消滅させられずに残った立場が絶対確実に正しいと言えるようになるのである。あるいは、両者ともに消滅するという事態も十分に考えられるが、その場合、「~という信念または命題が正しいということを正当化することはできない」、「~という信念または命題が誤っているということを正当化することはできない」という2つの、互いに矛盾しない結論が同時に成立することになる。これは、言い換えるならば、真偽を決定することは原理的に不可能であるということである。(なお、「真偽が決定不能である」とは「真偽はない」ということではないことに注意してもらいたい。)
  また、懐疑論は別の論理的根拠からも要請される。それは、多くの人びとがそれぞれ独断的に前提している基礎的立場〔世界了解〕のいずれが絶対確実に正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しないためである。このことは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない2。(これについては、建築とのアナロジーで考えれば分かりやすい。すなわち、基礎工事を行わずして1階部分をつくったり、土台と1階をつくらずして2階部分を空中でつくったりすることは、論理的にはともかくとして物理的にはできないのである。)
  ここで、この部分についてもう少し踏み込んだ議論を示すことにしよう。

  ◆ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に対して
   ⇒「おまえが被害者になっても同じことが言えるということだな。さっさと同じ目に遭え。」

  (a) 前半部分について
  彼が同様の状況に陥ったときに同じことが言えないとしても、そのことと彼による加害者擁護言明の真理値に関連性はない。この場合、その状況に陥ったときには彼もまた誤るのだという考え方を採用することができる。
  また、もし両者に関連性があるならば、たとえば下記2点のような事態が起こり得る。
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていないことのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていることのみから『1+1=2』が正しいことが帰結する」

  (b) 後半部分について
  自らの、あるいは自らが属する共同体に共有されている感覚や感情、およびそこから帰結する規範を盲目的に正しいと信じ、その押しつけを行っている。この種の者は、そうした感覚や感情に合致するか否かで何ごとかを判断するので、自らの言うことは必ず正しいという主張を含んでいることになる。したがって、たとえばある事態について酷いという感想を持たない場合には、(ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に噛み付いた場合とは違い)その事態について酷いという感想を持って不満をぶつける者を否定する。

  ◆ある事件の加害者とされる者に対する量刑に不服がある場合
   ⇒「裁判官は遺族感情を無視している。」

  繰り返しになるが、感覚や感情によってあることが正しくなるならば、その感覚や感情と相容れない感覚や感情に依拠した立場もそれ以外の根拠を持ち出さなくとも正しくなるはずである。しかし、こうした事態は(無)矛盾律に反するために成立しない。
  また、裁判では加害者の弁解(ある行為が悪であることについては肯定するが、その行為の原因が自らにあることを否認する行為)は認められないことが多い。ここでは、たとえば殺した者について否定的な感情を持っていたからであるとか、殺した者から生前に何らかの攻撃をされたからであるとかいったことは考慮されず、ただ殺したという行為のみを切り出した判断の仕方がされている。しかしながらこれは、すべての行為は行為者の匙加減1つである(どこにも原因がなく、行為は唐突に単体で生じる)という奇妙な見解の表明になるため、犯人を攻撃するのはただ攻撃者が身勝手であるがゆえにそうするのであり、遺族が悲しむこともまた犯人の行為が原因なのではなく(ましてやそれとは別の原因がどこかにあるわけでもなく)、ただ彼らがかってに感じただけであるということになる。したがって、遺族感情なるものを考慮に入れないことは正しいということが帰結する。
  ここで反対に、苦痛を感じるのはシステムによって決定されているので行為者の自由にはならないという考え方を持ち出してきた場合はどうなるであろうか。つまり、加害者以外の者が加害者を攻撃するのは決定されている(および、そのように決定されているので加害者を攻撃するのは仕方がない)と考えるのである。この場合には、犯人が法的罪に該当するような行為をしたことは他の何かの因果的な連鎖によって引き起こされた(たとえば以前に被害者に攻撃されたから殺した)のであり、彼が加害者であるがゆえに社会的私刑を受けるということ、そのことによって苦痛を感じるということ、したがって被害者に転じるということすべてがシステムにより決定されていると考えねばならなくなる。
  こうして、「遺族感情を裁判に持ち込まねばならない」といったような言明は成功しないと言うことができるようになるのである。

  しかしながら、これまでに述べてきた議論には5つの欠点がある。以下で、それを洗い出すことにする。

  (1) 懐疑論においては、人間や人間社会は人間の意識や言語から独立して存在することができるという前提、したがって正当性を担保するのは人間社会を包括する何かであるという前提が採用されている。そして、その一般的な形式が世界である。すなわち、世界が他のものやことを根拠づけていると考えるのである。しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括しているように、他の何かがその世界を包括しないならば、人間社会を直接的に包括する世界による根拠づけは、心理的根拠と同様の独断と化す。したがって、人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界が要請される。しかし、これについても同じことが言えるため、無限後退という隘路に入っていくことになる。要するに、懐疑論において正当性を担保すると想定されているものは、独断か、または無限後退のいずれかの誤謬の所産なのである。

  (2) 懐疑論によれば、まず何よりも基礎的立場の正しさの確定が必要であるということになるが、この考え方には2種類の疑問が生じる。1つは、基礎的立場の確定に必要な議論においては、基礎的立場が確定していない以上、より上位の議論を参照せざるを得ないが、他方で基礎的立場が確定していない段階におけるより上位の議論が空虚になると考えるのであれば、そうした独断的前提を採用した議論を参照して確定される基礎的立場にもまた独断が入り込むことになるというものである。(ただし、矛盾律と否定的背理法/消極的背理法からのみ何かが導き出されるならば、この問題は解消される。)そしてもう1つは、基礎的立場の正しさを確定することが必要であることを論証する際に利用されていた背理法が正しいならば、「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されていることになるというものである。また、仮に同一視するのが正しいとしても、その論理的根拠はどのようなものであろうか。

  (3) 懐疑論が批判する独断は(無)矛盾律が導かれるために誤謬であるとされているが、その結論へと至る過程には標準背理法/肯定的背理法が利用されていた。しかし、標準背理法は、結論が二重否定になる非標準背理法/否定的背理法とは異なり、排中律を内包している。ところが、排中律は(無)矛盾律や非標準背理法のように自明なものでない。また排中律を支持することは、上述の、理想的な懐疑の過程において排中律が成立しない可能性についての言及と矛盾する。

  (4a) 懐疑論は論理学に依拠して進められる。しかし、論理学は、前提や結論、さらにはそれらの文を構成する各要素(主として語彙や文法)については何も述べず、推論と呼ばれる過程/関係性しか扱わない。ところで、前提の正しさや前提を構成する文の各要素の使用法の正しさを論証しようと思うならば別の前提を持ち出さなければならなくなる。こうして必ず完全性がない部分が現れ続けるという無限後退に陥るか、または循環論法3が生起するようになるか、そうでなければどこかで独断的に基礎を決定せざるを得ない。

  (4b) 懐疑論は徹底的に懐疑することを標榜している。そして、徹底的な懐疑は、結局「~とは何か」という問いに収斂する。むろん他の種類の問いもあるが、1つずつすべてを疑っていくという立場では、その疑問文で扱われているすべての語が分からないという前提のうえで議論が開始されるはずであるから、結局は左の問いの形に落ち着くことになる。しかし実際には、「何」という語、「~とは何か」という文法、さらにはそもそも「疑う」という語、「分かる」および「分からない」などの、懐疑論の出発点において必要となってくる基礎的な語についても分からないのである。したがって、他の何にも依拠しないという無根拠の状態からでは、思考を開始することができない。すなわち、懐疑することができるには少なくとも「何」を初めとするいくつかの語やそれらの語を使用するためのいくつかの文法を独断的に前提せねばならない。このことから、言語は「独断の共有化」、「共有された独断」によって成立していると言える。
  これは(4a)とも密接に関係しているが、問題は日常言語がどこまで効いてくるかということであると思う。より具体的には、日常言語が独断から逃れられないとするならば、演繹という語が日常言語である以上、演繹それ自体もまた独断により成立しているということなのか、それとも演繹という語とその語によってわれわれが想起している関係性それ自体〔論理的関係性〕は独立に存在することになるのかということである。また、後者の考え方がただ1つの立場からのみ言われるもの(具体的に想定しているのは真理の対応説)であるかどうか、さらにはそもそも具体的にいかなることを言っているのかも分からない。

  (5) この懐疑論の最後の部分では単線的決定論と素朴な非決定論の対立という二分法が持ち出されているが、決定論と非決定論の両方についてそのほかのバージョンの有無が検討されていない。

  以上より、「すべてを疑おうとする者は疑うところまで辿り着けない」という、ヴィトゲンシュタインによる懐疑論論駁が導出される。結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともないのである。すなわち、言語の制約を受けている以上、言語と切り離して何かが存在したり、成立したりするということはあり得ない。すべては人が人の言語によって規定・設定したり、構築・制作したりしている。それも、しばしば想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、そこにはただ人間社会=人間の言語しかないのであるから、正当化を担保するものは人間社会=人間の言語であるとする構成主義的立場が正しいと言える。
  しかし、本当にそうだろうか。その場合、すべての語について、有象無象の独断的議論に見られるように、感覚や感情による規定を行い、根拠づけが成功すると考えるならば、それは他者(たとえばこの私)がそれとは異なる(しかも相容れない)感覚や感情により規定、根拠づけを行うことによって、両者の理論上の身分は同等になるという、すでに述べた懐疑論からの議論が再登場することになる。あるいは、これもすでに見たように、「すべての人間が『1+1=2』が誤りであると信じていることのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」などといったように、「正しいこと」と「正しいと信じること」が同一であるということになってしまう。
  それでは、いくつかの語などについては独断を無視するほかないという立場はどうであろうか。この立場の問題点は、なぜそのいくつかの語などについて独断が許容されて、そのほかの語などについて独断が許容され得ないのかというものである。そこにいかなる基準があるのかということについて論証することができない限り、先に挙げた、すべての語について独断を許容する立場と同じ隘路が待ち受けているのである。(しかし、この立場を徹底すると再び懐疑論が論駁されることになる……。)


  注  釈

1 懐疑論は対立する両者に等しく自らの正しさを直接的に論証することを要求する。
  しかし、相対主義の場合には注意が必要である。真性の相対主義者は、相対主義の主張を他者に押しつけないし、その必要性もない〔そのようにしなくとも相対主義は成立する〕と考える。相対主義は、それを主張する者にとってのみの真理なのであり、それ以外の者にとってどうであるかということは問題でないのである。したがって、「生きる意味」について、「個人的には~というのが生きる意味だが、それをほかの人がどう思うかとか、それが普遍的なものかどうかとかはどうでもいい」という主観的な見解のみを持っている人と同質であると言うことができる。言い換えるならば感覚あるいは感情の報告と同質であり、そこには議論が成立する余地はない。この見方は、相対主義を採用すればコミュニケーションが成立しないとする、おそらく一般的であろう見解と軌を一にしているため、こうした理解の仕方をしてよいと思われる。
  ということは、相対主義こそが正しい考え方である〔相対主義を採用せざるを得ない〕という立場を採用した場合、そのほかの立場とは異なり、自身以外の立場の不可能性を論証することによってのみ自身〔相対主義〕こそが正しいということが判明するということになる。(これに対して、相対主義以外の立場をとる場合には、相対主義の不可能性を論証する必要があるほか、自身の正しさの直接的論証が要請されるということはすでに見たとおりである。)要するに、同じ非明晰主義であるとは言え、超心理学、神秘主義、心霊主義、東洋思想等々とは異なり、どうやら相対主義の場合には「正当性の探究をしているにもかかわらず、自身が正当化している考えを論証することができない、あるいはそれ以前に論証しようとしないこと」が「不当な正当化を行っていること」にはならないようである。
  なお、ある立場が絶対確実に正しいと言えるためには直接的論証が必要であると述べたが、ここでのある立場には「ある立場を批判するという立場」は含まれない。単にある立場の誤謬を指摘することに終始する場合には、自らが積極的な主張を行っているのではないため、彼の採用している立場はないと考えられる。(より厳密には、判断留保という立場であるが、これは消去法の結果として立ち現れる〔懐疑論を遂行する場合に必然的に採用することになる〕種類のものである。)

2 もっとも基礎となる立場をまず決定せねばならない。
  なお、基礎的な議論が終わった次に待ち受けているのは、その枠組みのなかにあるどの枠組みが正しいかという議論である。たとえば、絶対主義が正しいということになったときには、実在論が正しいのか、観念論が正しいのか、それとも……となる。さらに、実在論が正しいとなれば、素朴実在論が正しいのか、科学的実在論が正しいのか、それとも……となる。さらに、科学的実在論が正しいとなれば、……。そしてようやく最後に、より具体的な個別の問題について、正当化することのできる枠組みに依拠すればどのような解を与えることができるのかと考えることができるようになるのである。

3 循環論法
  たとえば、AからZという、互いに異なる言明があり、AからはBを、BからはCを、CからはDを、……YからはZをそれぞれ演繹的に導き出すことができると仮定した場合、それら隣接する言明同士の繋がりやAとZとの繋がりなどは絶対に正しいと言える。しかし、Aという言明はいかにして正当化されるのであろうか。この問いに対して、ZからAを演繹的に導くことができると仮定したときに循環論法〔論点先取り〕が生じる。(そのような仮定を行わない場合には無限後退に陥り、さらに無限後退を回避しようとすればAの正当性を独断することになる。)それは、ZがYによって、YがXによって、XがWによって、……BがAによって論証されるといったように先ほどとは逆の流れを辿っていけば理解することができる。その結果はAの正当性はZによって保証されるということになるが、最初の仮定ではAがZの正当性を保証していたのであった。また、そうした体系をαとし、それとは別の体系βからAを演繹することができるとしよう。しかし、体系βにおいても、上記で示した、体系αにおける問題と同様のことが生じるため、結局はせいぜい循環論法止まりで、悪くすれば無限後退や独断に陥る結果となる。(この種の循環論法で構成される体系あるいは体系群を支持するのが全体論あるいは外在主義的整合主義と呼ばれる立場であろうか。)
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# by l-game | 2009-03-01 19:54 | 思想